日本メノナイトブレザレン教団

石橋キリスト教会
礼拝メッセージ 2023.12.10 日曜礼拝

「見よ、わたしのしもべを」

(イザヤ書 42:1-4)

牧師:船橋 誠

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    「見よ、わたしのしもべを」

     

    イザヤ書 42:1-4 船橋 誠

     

    1,正義を願う心の中の声

     

     私たちの心の中には、正しさ、正義や公平を願う声が存在します。これは大人だけの理想ではありません。たいてい子どもは正義に対して、非常に敏感です。もしも不公平を感じると、腹を立てて、怒ったり、泣いたりして、抗議をやめません。社会の中にある数々の不正や悪を見て、憤りを感じるし、それをどうにかならないかと思うのですが、そうしたことがあまりにも多いことと、自分にできることは本当に限られていることを私たちはよく知っているのです。そういう無力感から「世界とはこういうものだ」とあきらめの感情を持ち、そのような状態が続くことで、無感覚になってしまうこともあるでしょう。それでも、私たちの心の中の声は小さいものであっても、続けて語りかけていると思います。その声は決して自分だけの思いではないことを聖書は示しています。

     イザヤ書42章1節から4節には、神によって選ばれた「しもべ」が、正義を行われるということが記されています。「さばき」と訳されたことばは、ヘブライ語でミシュパットです。このことばは、『新改訳第三版』までは「公義」と訳されていました。口語訳聖書では「道」、聖書協会共同訳では「公正」と訳されています。この語は、元々、王様や裁判官がその権威を持って語る宣言や判決のことを表しています。イザヤ書は今から約2700年前に記されたと言われていますが、そんな古い昔の小さな国の預言者が、世界大のスケールで、その「しもべ」なる方が、諸国家を、すべての人々を公正にさばき、正義を行うと書いたのです。これは、ひとりの人が思い描いた単なる理想やファンタジーなのでしょうか。しかし、聖書全体はそうではないと語っています。私たちの心の奥で語りかけているその声は、私たちの住むこの世界と私たち一人ひとりのことを心配している誰かからのもので、この世界を生み出された誰かの声なのです。その誰かが、必ずや正義をもたらし、あらゆる物事を正し、私たち人間をも正して、ついには世界を救済するという目的を持っているのです。

     

    2,正義を確立する「主のしもべ」とは

     

     そのさばきを行なってくれるお方が、このイザヤ書に描かれている人です。この「主のしもべ」と呼ばれる人は誰のことなのか、多くの議論が生み出されて来ました。これはイスラエル民族という集団を指すと主張されることもあり(参照;49:3)、また、キュロス(ペルシアの王)などの歴史人物を指しているとも言われます(参照;44:28)。あるいは、イザヤ自身のことだと言う人もあります。ほかにも、これらの集団や個人を文脈ごとに別々に当てはめて理解する試みもあります。この「主のしもべ」の預言は、ある視点では山は一つに見えているが、実はそうではなく、いくつもの山々が重なりあっているという、そういうことなのかもしれません。

     ただ、明確なことは、イザヤ書の「主のしもべ」の姿を、その預言書が書かれてから700年後に新約聖書の記者たちはイエスというお方の中にはっきりと見ていたということです。この42章1節から4節を引用しているところが、新約聖書マタイの福音書12章15節から21節までの記事です(引用部分は18節から21節)。このお方についての表現で、最初に注目したいのは、「しもべ」ということばです。ヘブライ語でエベドというこの語は、奴隷、家来、家臣というような意味ですが、新約聖書に引用されるとき、この語はパイスというギリシア語になりました。これは、若者、子どもなどの意味を持つことばでもあり、あるギリシア語学者によれば、英語で言い直すと、ボーイ(boy)だと言っています。それは、天の父である神が愛された「わが子」であり、同時に御父のご意志を完全に果たしていかれる「しもべ」であることを示しています。

     この世界にさばきを行い、真の正義をもたらす方と考えると、何か物凄く強くて大きくて、目立つ存在の人物像をイメージしやすいと思うのですが、ここにはそのイメージを覆すような「しもべ」とか「子ども」ということばが使われています。世界に公義を打ち立てると言われる方は、私たち人間の心に思い浮かばないような方として来られることを明らかにしています。

     

    3,「主のしもべ」は傷んだ葦を折ることもない

     

     この「主のしもべ」がどのようなかたちで、あるいはあり方で、義をもたらしていかれるのか、それがイザヤ書42章2節から3節に書かれていますが、まず2節には「彼は叫ばず、言い争わず、通りでその声を聞かせない」とあります。マタイ12章16節にイエスは「ご自分のことを人々に知らせないように」と戒めたことが書いています。自己主張をされたり、周囲に自分を売り込んだりされず、また攻撃的でもなく、ただひたすら静かに自らの使命を忠実に果たしていかれるイエスのお姿は、まさに「主のしもべ」そのものであるとマタイは確信したのです。

     さらに42章3節の「傷んだ葦を折ることもなく、くすぶる灯芯を消すこともなく」ということでした。マタイ12章15節には、「イエスはそれを知って、そこを立ち去られた。すると大勢の群衆がついて来たので、彼らをみな癒やされた。」とあります。マタイが実際に見ていた情景は、次々と運ばれてくる多くの病人でしたし、悪霊に憑かれて苦しみ叫ぶ人々でした。足が立たなかったり、目が見えなかったり、からだが硬直していたり、手が動かせなかったりした人々であったことでしょう。イエスはそういう苦しんでいる人々に対して、嫌がることもなく、愛をもって仕えておられたのです。その愛と優しさは、イザヤ書42章3節にあるように、「傷んだ葦を折ることもなく、くすぶる灯芯を消すこともなく」ということでした。植物の真っ直ぐに立っている「葦」は、元々風が吹くとそよぐように弱く、心もとないものです。ましてや、その葦の茎が潰れて折れてしまうと、自分で立っていることができななくなります。もうそれは葦が葦ではないように見えてしまいます。

     また、くすぶって燃え上がらなくなった灯芯も、仄暗い明かりからやがて消えてしまうようなものですから、それを捨てて取り替えたほうが良いものです。もちろん、この「傷んだ葦」も、「くすぶる灯芯」も、人間の弱っている状態を示す比喩です。本来のあり方ができなくなり、役に立つようには見えず、社会から、人々から、欠陥あるものとして捨てられてしまうような存在。そういう人たちに対して、主イエスは「いや、待ちなさい。このわたしが彼らを癒やすのだ。彼らを助けるのだ。」と仰って、働いていかれたのです。このように、人がふつうに考えるようなあり方での正義やさばきではなく、「傷んだ葦を折ることもなく、くすぶる灯芯を消すこともない」、愛をもった支配だったのです。

     42章4節の終わりには「島々もそのおしえを待ち望む」とありますが、マタイのほうは七十人訳聖書に合わせて、こう引用しました。「異邦人は彼の名に望みをかける」(マタイ12:21)。私たちはこの世界をあきらめなくても良いし、自分に絶望せずとも良いと、主は言われます。イエスの御名に望みをかけて歩めるのです。私たちがあきらめようとも、主は決してあきらめません。「主のしもべ」であるお方は、決して「衰えず、くじけることなく、ついには地にさばきを確立する」のです。

     

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