日本メノナイトブレザレン教団

石橋キリスト教会
礼拝メッセージ 2023.5.7 日曜礼拝

「絶望の中での叫び」

(詩 篇 22:1-22)

牧師:船橋 誠

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    「絶望の中での叫び」

     

    詩 篇 22:1-22 船橋 誠

     

    1,詩篇作者の絶望

     

    絶望の感覚① 神との距離

     この詩篇は、キリストの十字架の情景を想起させ、その預言的な内容のゆえに「第五の福音書」と言った人もありました。しかし、この本文そのものにまず向かい、この詩篇作者(ダビデでしょうか)が書き表している内容を見ていきたいと思います。その上で、キリスト預言のほうも見ることにいたしましょう。全体は、前半が絶望の中での祈りが記されており、後半21節からは賛美のことばが書かれています。明暗のコントラストが鮮やかな詩篇です。ここに記されているのは、まさに「絶望している人」です。しかも神を知らない人が絶望しているのではなく、信仰を持っている者が神に見捨てられたと感じて、失望のどん底にあります。

     第一に、絶望している詩人は、神が遠い存在になってしまったと感じています。1節「わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか。私を救わず、遠く離れておられるのですか」。この「遠く離れる」ということは、11節に「どうか、私から遠く離れないでください」とあり、19節にも「主よ、あなたは離れないでください」と繰り返し語られています。神が遠くに感じられ、この私を見捨てられのではないか、というのは、苦しみが大きかったり、長くなると、心に起こり得る感情です。試練や苦労は人を訓練し、人を成長させるというのは一方で真理であるのですが、その人にとって苦しみが激しく、過酷なものであればあるほど、それは受け入れ難いことであり、神が残酷で無慈悲なお方にさえ思えてきます。耐え難い試練や絶望の心は、人を信仰から遠ざけてしまうこともあります。この詩人のごとく、見捨てられたと思ってもなお、「わが神」と呼べる者は幸いです。

     

    絶望の感覚② 自己の否定

     第二に、詩人は先祖たちが神によって救われているのに、自分がそうではないことに苦しみを覚えています。4節と5節に、イスラエルの先祖は主に信頼して、助け出された事実を述べています。しかし、続く6節では、自分のことを「私は虫けらです。人間ではありません」と述べて、先祖とは違って自らは卑小で愚かな存在であると意識し、自虐のことばを書き記します。そうして悪く言って来る人たちや嘲る人たちの声が自分の心には聞こえてくるというのです。このように絶望しているとき、神と自分との距離が遠く離れているという感覚を持ってしまい、自分で自分のことを貶める否定的感情に支配されてしまうことがあります。

     

    絶望の感覚③ 逃げ道なし

     第三に、詩人は敵に囲まれて、逃げ場がないと感じています。12節から18節に、「多くの雄牛」、「バシャンの猛者ども」、「吼えたける獅子」、「犬ども」、「悪者どもの群れ」の比喩をもって、敵対する者が凶暴かつ危険な獣であることを訴えています。この「雄牛」などが何を意味するのかは明確ではありませんが、詩人は確かに弱っていました。敵に包囲されて、脱出できる道は絶たれ、死を待つばかりの状態であることを表現します。彼は、自分の骨が全部はずれてしまってバラバラになり、心はろうのように溶け、体力や気力は陶片のように干からびて、獲物の死を待つ野獣の前にいるような感覚になっています。

     このような絶望状況から、どのようにしてこの詩人が立ち上がることができたのか、それは明確には記されていないようです。ヒントとして考えられることは、後半で明らかになる信仰共同体の存在です。絶望は彼を孤独の中に置きましたが、実はそうではなかったのです。彼はひとりではなく、ともに祈り賛美し、主を礼拝する仲間がありました。

     

    2,イエスの絶望

     

    預言の成就

     冒頭で触れましたように、この詩篇にはキリスト預言的な側面があります。引照箇所を見るとわかりますが、多くの箇所で新約記者がこの詩篇を引用しています。7節から8節は、マタイの福音書27章39節と43節等に見ることができます。18節は、兵士たちがイエスの衣をくじ引きにした記事のヨハネの福音書19章23節と24節で確認できます。イエスが十字架に架かられる遙か昔に、約千年前に書かれていたことが、文字通りの現実になったことにただ驚きの思いを持ちます。そのことは深く心に留めていただきたいと思います。

     それと同時に、ここで最も十字架の場面において思い起こさせることばは、1節です。「わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか」。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」です(マタイ27:46)です。ちなみに、詩篇22篇のヘブライ語本文では、「サバクタニ」(アラム語)ではなく、「アザブタニ」(ヘブライ語)です。

     

    絶望を知り尽くした方であるイエス

     いずれにしても、このイエスが仰せになった叫びは、理解の難しい「謎」、「神秘」などと言われてきました。というのも、イエスが神の子であるなら、父なる神がご自分を見捨てになるとは思っていなかったのではないか、あるいはこんな絶望的な叫びをあげるのはおかしいと考えられたからです。また、それゆえに説明として、この詩篇22篇の最後にある賛美を捧げるおつもりで冒頭から暗唱されたのであって、後半の詩篇のことばこそイエスが仰っしゃりたかったことであると言われたりもしました。そうであるかもしれませんが、それだけであるなら、大切なポイントを見失ってしまうように思います。

     イエスは確かに「わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか」という思いを嘘偽りなく持たれ、十字架の上で絶望の叫びを発してくださったと思うのです。言い換えれば、キリストであるイエスは間違いなく、深く絶望されたということです。人間が、この世界が、神に見放されてしまう。何も頼るべきもの、生きる根拠や基盤さえも奪われてしまうような暗黒を、キリストは真に知っておられ、味わってくださったのです。加藤常昭師が書いておられたことですが、作家の椎名麟三氏が、牧師や神学生は、世間知らずで説教も綺麗事で終わってしまいやすい、だから社会で少し苦労させたほうが良い、と言われていたそうです。けれども加藤師が言うには、確かに牧師や神学生は世間知らずかもしれないが、一時的に社会に出て労働者として一緒に仲間と汗を流しても、それだけで労働者の悲哀や苦労がわかるものだろうか。もっと言えば、他の人たちの苦しみや涙、痛みや苦労、それを牧師だけでなく、それが経験としてわかる人はいないのではないか。だからこそ、私たちは、すべての人の苦しみ、絶望、悲惨を真に知り抜いておられるイエスのことを語るのだと。この主の味わわれた苦しみ、絶望ほど深い苦しみはこの世にありません。それゆえ、イエスの絶望を語る以外に、私たちは真の希望を語ることはできません。十字架のキリストの苦悩に勝る苦しみはほかにないのですから。だからこそ、私たちはどんな絶望の中にあっても、なお生きていくことができます。深い絶望の淵、地獄のどん底に主は立ち給うのです。

     

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