日本メノナイトブレザレン教団

石橋キリスト教会
礼拝メッセージ 2023.7.2 日曜礼拝

「私の願いを聞かれる神」

(詩 篇 28:1-9)

牧師:船橋 誠

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    「私の願いを聞かれる神」

     

    詩 篇 28:1-9 船橋 誠

     

    1,神はなぜ沈黙されるのか

     

    私に耳を閉ざさないでください

     「私に耳を閉ざさないでください。」、「沈黙しないでください。」(1節)という叫びは、この詩人の信仰が立つか倒れるかの瀬戸際にあることを示しています。この祈りのことばの響きには、「この詩人の絶望感が伝わって来る」と旧約学者クレイギー氏は記しています。苦しみの状況が続いていたのに、まるで神は何も答えてくれなかったかのように聞こえます。

     さらに「穴に下る者どもと同じにされないように」という表現が続いています。この「穴」(ヘブライ語でヴォール)とは死者が葬られる墓の穴であると解釈している翻訳が多いですが、本来の意味は、水を貯めておくために掘られた大きな穴だそうです(O.ケール)。降雨量の限られたパレスチナ地方では、大きな穴を掘って、水を貯めておいたのでしょう。そうした穴はおそらく地下数メートルもある深いものが多く、穴の底には水がなくても泥が溜まった沼のようになっていて、人がその中に落ち込んでしまうと、命の危険がありました。古代の人々は、黄泉や死者の冥界を、この穴という存在でイメージしていたと考えられています。ですので、詩人がここで言った意味は、「もし人生の危機に臨んでいる自分の祈りを神が沈黙して聞いてくださらないなら、死者の領域である暗闇の穴の中に落ちて行き、死者の世界の住人になってしまう。そんな死の淵に私は立っている」という告白です。

     

    主は私の願いの声を聞かれた

     これまで詩篇を礼拝で読んで、気づいてきたことですが、詩篇は素晴らしい神の恵みを教え、私たちを祝福に導いてくれる賛美であり、魂の喜びであるのですが、同時に詩篇は、信仰の闘いの様相を示し、霊的な格闘があるということを生き生きと描き出して、信仰のリアルを教えているのです。では、祈りの格闘、信仰の闘いを経験した作者の結論は、どうだったのかと言うと、次のように書いています。「私の願いの声を聞いてください」(2節)との祈りは、いつの日か「主は私の願いの声を聞かれた」(6節)と告白するに至るということです。だから結果として、「私の心は喜び踊る」と主を賛美できたということです(7節)。

     

    2,罪の世界でどのように生きていけるのか

     

    心の中に悪を秘めた人々に囲まれて

     では、ダビデあるいはこの詩篇記者がここでどんな苦難に直面し、どんな問題からの解放を願っていたのでしょうか。その理由となる具体的な事柄はわかりません。たとえば、旧約学者の関根正雄氏はこの詩篇のテーマを「病者の祈り」としています。詩人は死に直面するような重病を患っていたと推測しています。あるいは、「悪者」や「不法を行う者」(3節)の存在が記され、さらに悪者どもと「一緒に私を引いて行かないでください」(3節)との表現から、詩人は裁判にかけられ、正しい審判が行われるよう、身の潔白を語って、解放されることを必死に願っていたと想像する人もいます。

     いずれにしても、詩篇作者は、厳しい危機的事態の中に置かれ、切羽詰まった状態にありました。彼に敵対する人たちは、「平和を語りながら、その心には悪がある」(3節)者たちでした。「平和」はヘブライ語でシャロームで、神の平安、平和の支配を口では言っておりながら、その心の奥底では悪い企みや邪な考えを秘めていたのです。恐ろしいことです。

     

    主の贖いに基づいた祈り

     詩人は、敵対する彼らの内側にある恐ろしさとその罪は、彼らだけの問題として片付けて、自らを罪なしと考えていたわけではなかったと思います。もちろん、詩人は彼らの罪に加担したわけでなかったでしょう。しかし主の御前には、自分も罪過を背負って生きている罪人であることも十分わきまえていたと思われます。それは、3節にある、彼らと一緒に自分を引いて行かないでください、という訴えのことばからも想像できます。

     2節「私の手を、あなたの聖所の奥に向けて上げる」とのことばからもそれは推察されることです。「聖所の奥」とは、「至聖所」のことです。そこは幕屋や神殿の一番奥に位置し、契約の箱が安置されていました。年に一度「贖いの日」に、大祭司が入り、民の罪のために血のいけにえを捧げたのです。詩人が至聖所に向かって祈りを捧げると言ったとき、彼は流された血に基づいてここに来たことを神に告げているのであり、全能の神に近づく前に罪が贖われ、清くされなければならない罪人であることを自覚していたのです。詩人は神のなだめ、贖いに基づいた憐れみを願って、手を上げて祈っているのです。

     主イエスはパリサイ人と取税人の二人が神殿で祈ったというたとえ話をなさいました。パリサイ人は自分は神の前に正しい者であると確信して、「この取税人のようでないことを感謝します」と堂々と祈り、他方、取税人は目を天に向けることもせずに、胸を叩いてこう祈ったというのです。「神様、罪人の私をあわれんでください」と(ルカ18:9ー14)。この「あわれんでください」ということばが意味するギリシア語(ヒラスコマイ)の意味は、契約の箱の贖いの座を指しており、血の贖いに基づいて、この私を受け入れてくださいということでした(同語はヘブル2:17で「罪の宥め」と訳されています)。

     

    3,主に繋がり、主の民に繋がる

     

     詩人は自分の「手」を至聖所に向けて上げ、そして祈っています(2節)。それは祈りの「手」です。聖書にはしばしば、人々が手を上げて祈ったことが記されています。たとえば、「エズラが大いなる神、主をほめたたえると、民はみな両手を上げながら『アーメン、アーメン』と答え、ひざまずき…」(ネヘミヤ8:6)、「聖所に向かってあなたがたの手を上げ、主をほめたたえよ」(詩篇134:2)、「男たちは怒ったり言い争ったりせずに、どこででも、きよい手を上げて祈りなさい」(Ⅰテモテ2:8)など。私たちも粘り強く、祈り続けましょう。決して祈りの手を下ろしてはならないのです。

     そして個人的な神への嘆願、祈りと見えていたことが、最後の8節と9節になると、いつしか信仰の共同体、神の民としての祈りと執り成しへと広がっています。これは、今日に適用して言えば、教会の礼拝ということです。個人や家庭の祈りが、神の教会に繋がっているということ、それが礼拝という場に結集されて、大きなうねりや流れとなって溢れ出すのです。「主は私の力」(7節)ですが、同時に「主は彼らの力」(8節)でもあります。そして自らの信仰が揺るがされるような闘いの中での叫びが、いつしか御民イスラエルのための、また神の贖われた群れのための執り成しの祈りとなり、賛美へと成長していきます。「どうか御民を救ってください。…祝福してください。羊飼いとなって…携え導いてください。」(9節)。

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