日本メノナイトブレザレン教団

石橋キリスト教会
礼拝メッセージ 2023.12.3 日曜礼拝

「ほむべきかな、イスラエルの神」

(詩 篇 41:1-13)

牧師:船橋 誠

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    「ほむべきかな、イスラエルの神」

     

    詩 篇 41:1-13 船橋 誠

     

    1,あわれみ深い人として生きる幸い

     

    幸いなことよ

     詩篇1篇の最初のことばは、「幸いなことよ」(ヘブライ語:アシュレー)で始まっていましたが、第一巻最後の41篇も最初に「幸いなことよ」と述べられており、この第一巻は「幸い」の宣言で始まり、「幸い」の祝祷で終わっています。では、詩篇が語る「幸い」とは、何でしょうか。それは、この世界が与える一時的で不安定な幸せとは明らかに異なっています。たとえば、それは楽しいことが起こって幸せな気持ちになることや、富や繁栄によって生じる満足感とも違っています。聖書が言うところの「幸い」とは、神が与えるところの「真の幸せ」、すなわち、神による無条件で無制限に注がれる「祝福」のことです。

     1篇では、その「幸い」へ通じる道は、悪しき者の道に歩まず、主の教えを喜びとして生きることから与えられるものでした。それは神と自分という、言わば縦の関係に焦点が当てられていることでした。さて、それではこの41篇ではどうでしょうか。「幸いなことよ、弱っている者に心を配る人は。」(1節)と書いています。ここでは人々の間でどう生きるのかが、真の幸せに通じていることが言われています。主を信じて、そのおしえの中を生きることは、他の人たちへの愛、思いやり、優しさをもって生きることになることを教えています。他者へのあわれみをもって生きることが、人間にとっての「ほんとうの幸福」であることを示しています。

     

    あわれみ深い人はあわれみを受ける

     1節の「弱っている者」(ヘブライ語:ダル)と訳された語は、「弱い」、「無力な」、「寄る辺のない」ことを表すことばです。詩篇が書かれた遥か遠い昔においても、多くの弱い人、貧しく無力な人、頼れるものを持たない助けのない人が大勢いました。しかし、それは長い歴史を経た今も変わりません。そういう人々に思いを向け、心を配る人こそが、真の幸いを得ていると、この詩篇は語ります。

     「弱っている者に心を配る人」とは、あわれみ深い人のことです。この詩篇の中心テーマは、「あわれみ深い」ということです。最初の1節から3節で「あわれみ深い人」の幸いを明らかにした上で、4節から9節では「あわれみ深い神」に祈る詩人の心が書き表されています。この1節から3節で述べられていることの明確な結論は、「あわれみ深い人は、あわれみを受ける」という原則です。それはイエスが山上の説教で言われたとおりです。「あわれみ深い者は幸いです。その人たちはあわれみを受けるからです。」(マタイ5:7)。

     

    イエスが教えられた神が喜ばれる生き方

     41篇が明らかにしていることは、幸いな者として生きる信仰の実践です。ここでイエスが教えられた、あわれみ深い者として歩むことについての教えを見ておきたいと思います。まず、ホセア書6章6節を引用して言われたことばです。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人です。『わたしが喜びとするのは真実の愛。いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。」(マタイ9:12ー13)。この『わたしが喜びとするのは真実の愛。いけにえではない』の箇所は、以前の翻訳(第三版)ではこうなっていました。『わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない』。この引用は12章7節でも繰り返されています。「あわれみ」それは「真実な愛」ということ、それこそが神が人間に求めておられるあり方です。イエスが地上生涯を歩まれた当時、取税人や罪人、そして空腹の人たちが大勢いました。しかし、彼らに対してパリサイ人たちは冷たい視線を向けていましたし、イエスのなさる愛の行動に対して、非難と嘲りのことばで攻撃し、ことばの罠に嵌めようとしていたのです。そんな彼らとは対照的な生き方、弱い人に心を配るイエスの御姿がここに見て取れます。

     もう一つは、マタイの福音書25章34節から36節です。「さあ、わたしの父に祝福された人たち。世界の基が据えられたときから、あなたがたのために備えられていた御国を受け継ぎなさい。あなたがたはわたしが空腹であったときに食べ物を与え、渇いていたときに飲ませ、旅人であったときに宿を貸し、わたしが裸のときに服を着せ、病気をしたときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからです」。そして主はこう言われます。「最も小さい者たちの一人にしたことは、わたしにしたのです」と。最も小さい者たち、弱い人、苦しむ人たちに対して、あわれみ深い者となって行動しているかということが主からの投げかけでした。マタイの福音書のこの聖書箇所は、「オリーブ山講話」と呼ばれ、世の終わりのしるし、終末のことについて、弟子たちに話されたことの締め括りです。主のご再臨が近いことを意識すればするほど、キリスト者は、他の人々にあわれみ深くあるということに、より一層努めなくてはならないということです。

     

    2,あわれみ深い主に信頼して生きる幸い

     

     しかし、それはこの詩篇の4節から9節が記しているように、罪と悪の渦巻く世界のただ中で、どのようにしてあわれみ深く歩めるかという難しい問題と関係しています。ここには作者が実際に経験したことが記されているようです。彼は、病気になりました。きっと重い病でしょう。病床の中で彼が考えたことは、自分には「神の前に罪がある」という認識でした(4節)。また彼には敵がいました。「私の敵」(5節)、「私を憎む者」(7節)と呼んでいます。この敵は、彼に悪意を抱き、悪口を言い、心で悪を企んでいます。

     詩篇作者が味わった苦しみは、肉体のことだけでなく、敵対者たちの心理的攻撃でした。9節に「私が信頼した親しい友が、私のパンを食べている者までが、私に向かって、かかとを上げます」とありますが、この作者がもしダビデなら、それはアヒトフェルではないかと想定されます。ダビデの「助言者」(軍師的存在)だった人がアブサロム側について裏切り、彼を追い詰め、苦しめたのです(Ⅱサムエル15:12、31)。これはまたユダに裏切られたイエスが引用されたことばでもあります。「わたしは、自分が選んだ者たちを知っています。けれども、聖書に『わたしのパンを食べている者が、わたしに向かって、かかとを上げます』と書いてあることは成就するのです。事が起こる前に、今からあなたがたに言っておきます。起こったときに、わたしが『わたしはある』であることを、あなたがたが信じるためです(ヨハネ13:18ー19)。

     主イエスがこの詩篇の一節をご自分のこととして示しておられることは、私たちにとって大きな意味があると言えるでしょう。それはイエスが、私たちの兄弟、仲間となって、人間としての苦しみを味わわれ、詩篇の祈りをご自身の祈りとされたことを示しているからです。多くの敵や憎む者たちにイエスは囲まれ、真っ暗闇のようなドロドロとした世界を生きられました。このように私たちは人の痛みを知るあわれみ深い仲保者を持っているゆえに、確信をもって大胆に「主よ あわれんでください」(4、10節)と祈れるのです。

     

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