日本メノナイトブレザレン教団

石橋キリスト教会
礼拝メッセージ 2024.4.21 日曜礼拝

「苦難に耐える人々への慰めと励まし」

(テサロニケ人への手紙 第二 1:1-12)

牧師:船橋 誠

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    「苦難に耐える人々への慰めと励まし」

     

    テサロニケ人への手紙第二 1:1-12 船橋 誠

     

    1,苦難から主の来臨を待ち望む信仰が生まれる

     

     テサロニケ人への手紙第ーと第二は、主の来臨についての教えに重点が置かれているところにその特徴があります。第一の手紙では、主の再臨前に亡くなった信仰者たちはどうなるのかについて、パウロが答えているかたちでそれが記されています。おそらく、その後、パウロの示した再臨の教えを曲解して、世の終わりを根拠にして、怠惰な生き方をする人たちがいたので、今一度注意を促す必要があり、第二の手紙も書かれたと考えられます。この第二の手紙の2章は「小黙示録」とさえ呼ばれているところで、イエスが来臨される前に起こる謎めいた秘密の事柄が記されています。

     いずれにしても、パウロが再臨について二つの手紙で繰り返し教えたのは、人々の間で主の来臨を求める思いが強くなっていたということでしょう。それは、テサロニケの教会の人々がその信仰ゆえに厳しい迫害に耐えていかなければならなかったこと、さまざまな苦難の中を通っていたからだと思います。迫害や苦難は厳しくつらいことですが、それがかえって主への強い渇望を生み出すことにもなります。パウロはここで迫害による苦難は「神の国」にふさわしいものと認める「証拠」であるとさえ語っています。苦しみの多い時代に生きる私たちも、この書を通して生きる希望と力をいただきたいと願います。

     

    2,教会で主の来臨を待ち望む信仰が育つ

     

    目に見えない教会

     最初の1節に注目すると、第一の手紙の1章1節とほぼ同じ文章なのですが、一つのことばが加わっているのです。それは、「私たちの父なる神」という表現です。第一の手紙には「私たちの」ということばはなかったのです。些細な違いのようですが、ここにパウロの彼らに対する信仰の絆が、第一の手紙を書いた時点よりも、さらに強くなっていることが読み取れます。この同じ唯一の「御父」である「神」に、テサロニケのキリスト者たちも、そしてパウロたちも、このおひとりの「神」に繋がっているのだという確信とその表明です。これはまさに「普遍的な教会」という存在、「目に見えない教会」の姿をよく示しています。かたちは見えなくても、同じおひとりの「神」に、同じ「信仰」によって、どこにあっても、目に見えない絆がそこにあり、互いに繋がっているという確信です。

     

    目に見える教会

     しかしながら、そうであっても、ここでパウロは書いています。「テサロニケ人の教会へ」と。これは「目に見える教会」でもありました。テサロニケという町に、キリストを信じる人々があり、彼らが集まって、神を礼拝し、主を待ち望んでいたのです。私はここを読みながら、自分がこの教会に導かれ、所属させていただいていることを主に感謝しました。教会の本質は、もちろん場所や建物ではありません。けれども、そこへ行けば、キリスト者たちがおり、信仰を持っている人々と出会える、これはとても重要なことだと思います。

     私は教会に来る前に、新約聖書を読んでいたし、テレビやラジオの福音放送を視聴し、漠然と信じてもいました。でも、神さまのことが明確には理解していなかったし、ましてや主の愛や恵みをわかっていませんでした。しかし、教会に来て、自分の目と耳で、キリストを信じて歩んでいる人々の口から語られる証し、聖書の教え、祈りのことばを直接受け取って、「ああこれが信仰なんだ」と実感できました。信仰が頭の中だけで想像している概念や思想ではなく、触れることのできるもの、実体が感じられる手応えのある経験となりました。

     それがヨハネの手紙第一が冒頭で記している勧めです。「初めからあったもの、私たちが聞いたもの、自分の目で見たもの、じっと見つめ、自分の手でさわったもの、すなわち、いのちのことばについて。このいのちが現れました。…私たちが見たこと、聞いたことを、あなたがたにも伝えます。あなたがたも私たちと交わりを持つようになるためです。」(Ⅰヨハネ1:1~3)。ヨハネは教会というものをこの書で「交わり」ギリシア語でコイノーニアと呼びました。それは主にお会いし、ふれる場、経験する場としての教会ということです。

     宗教改革者カルヴァンが『キリスト教綱要』の中で、教会を「母なる教会」と記しています。「もしも、わたしたちがこの母の胎に宿ることがな ければ、誰も永遠の命へと生まれ出ることはなかっただろう。母なる教 会はその子らを宿し、乳房から乳を与え、さらにその保護と統冶のもと に置き、ついにはこの滅ぶべき肉体を脱ぎ捨てて、天の御使いに似 た者とならせる。わたしたち自身の脆弱さのゆえに、わたしたちはこの学校を離れることなく、生涯をその生徒として送るべきなのである。」(『キリスト教綱要』Ⅳ・1・4)。このように教会は信仰者の母親なのです。

     

    3,主の来臨を待ち望む信仰から感謝が生まれる

     

     3節に「兄弟たち。あなたがたについて、私たちはいつも神に感謝しなければなりません。」と記しています。「感謝しています」でも、「感謝するでしょう」でもなく、「感謝しなければならない」と言います。この「~しなければならない」と訳されたギリシア語(オフェイロー)は、「お金を借りている」という意味のことばです。そのニュアンスでいくと「神に感謝するという義務を負っている」ということになります。絶対そうしなくてはならないという強い意志がここに示されています。感謝というものは、感謝したい気持ちや感情のあるなしに左右されるものではなく、必ずしなくてはならないことなのです。

     それでは、何を感謝するのか、あるいはできるのか、それをパウロは私たちに示しています。パウロは、テサロニケの教会の人たちの信仰が大いに成長し、互いに対する愛が増えていることに感謝しています。このパウロのことばを読むと、いつも何について自分が感謝しているのかを振り返らせてくれます。それは危険や苦難からの回避や脱出、 病気の癒やし、経済的なこと、人間関係のこと、仕事やプロジェクトの目標達成等だったりして、パウロが感謝している内容とはだいぶ異なっているように感じます。新約学者D.A.カーソンが指摘していますが、もし感謝の大部分が物質的な繁栄と満足であるならば、それが自分 にとって最も価値あるものと考えているということを明らかにしており、 それがあなたの心の中にある中心の価値観を示すのだと。

     イエスをメシアとして信じ、従う信仰をもって生きるとことは、ここにパウロが記している通り、まさにそういう価値観からの脱却と変換とが起こることなのです。パウロは、テサロニケの教会に目を注ぎます。主を信じて歩んでいる彼らの信仰が、大いに成長していることを喜び、互いに愛し合っていることを聞いて、慰めを受けています。苦難に耐えている彼らのことから励ましを受けているのです。そして、信仰をもって歩むことが決して苦しみの日々で終わるものではなく、「主イエスが、燃える炎の中に、力ある御使いたちとともに天から現れる」(7節)という「その日」(10節)が必ず到来することをパウロは確信していました。「報い」と「報復」は神のなさること、それは必ず与えられるときがやって来るということです。

     

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