日本メノナイトブレザレン教団

石橋キリスト教会
礼拝メッセージ 2024.3.10 日曜礼拝

「主は来られる」

(テサロニケ人への手紙 第一 4:13-18)

牧師:船橋 誠

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    「主は来られる」

     

    テサロニケ人への手紙第一 4:13-18 船橋 誠

     

    1,望みのない人々のように悲しまないために

     

    神に喜ばれるため

     4章前半で、パウロはテサロニケの教会の人たちに、「神に喜ばれるためにどのように歩むべきか」(1節)と言って、結婚と性の問題、兄弟愛と労働の問題について語ってきました。そして後半部分では、最後の三番目の点である、人間の死ということについて語っています。13節で「望みなく…悲しむ」とありますが、「神に喜ばれる歩み」とはそれとは反対の生き方です。主にあって希望を抱き、喜びをもって日々を歩むことです。

     しかし、どんな人でも望みを失いかねないこと、悲しむことが避けられないことの一番に挙げられることは、家族や親しい人たちとの死別でしょう。「悲しむな」と言われても、死によって地上でもう二度と会えなくなってしまうのですから、それは耐え難いほど悲しくて寂しいことです。もちろん、聖書が語っていることは、単純に「悲しんではいけない、喪に服するな」というようなことではなく、限度を超えて絶望的になり、悲嘆に暮れてしまうことのないように、という意味です。主イエスも、友人ラザロの死に対しては涙を流されました(ヨハネ11:35)。

     

    互いに励まし合うため

     さて、「眠っている人たち」と書いてあるのは、パウロの執筆時点ですでに亡くなった人たちのことです。それは16節にあるように「キリストにある死者」のことで、主を信じてから亡くなった方々のことを指しています。この「あなたがたが…悲しまないため」というところは受動態で、直訳すれば「あなたがたが悲しませられないために」となります。いったい「誰によって彼らが悲しませられてしまうのか」ということですが、それは悪魔によってであると説明している註解を読みました。それによるとこの受け身形は「悪魔的受動態」といいます(宮平望著『テサロニケ・テモテ・テトス・フィレモンへの手紙 私訳と解説』新教出版社)。確かに悪魔やサタンは、私たちキリスト者たちが霊的に無知であることを望み、悲嘆に暮れて絶望して信仰から離れてしまうように働きかけてきます。パウロはキリスト者たちが悪魔のそういう罠に陥ることなく、かえって神に喜ばれる歩みをして、彼らが「互いに励まし合う」ことができることをパウロは大きな目的として書いているのです。

     

    2,主の来臨には死者の復活が伴う

     

     この箇所全体について私はこれまで「雲に包まれて引き上げられ、空中で主と会う」(17節)ことに心が向いていました。しかし詳しく見てわかったことは、死者が復活するという点について、パウロは明瞭かつ大胆に述べているのだと気づきました。再臨と復活は同時に起こることであり、言わばペアの出来事です。14節で「イエスが死んで復活された」と私たちは信じているのだから、すでに信仰をもって召されていった人たちもやがて復活することは当然であるとパウロは言っています。また16節です。「…主ご自身が天から下って来られます。そしてまず、キリストにある死者がよみがえり」と言明されます。この復活信仰についてはコリント人への手紙第一15章でその詳細が記されますが、「主が天から下って来られる」とき、すなわち再臨において起こることは、肉体の復活であるということです。そしてこの書の執筆時点でパウロは、自分が生きている間に、主が再び来られる可能性があると考えていたように読み取れます。15節「生きている私たちは…」、17節「生き残っている私たちが…」などです。

     しかし、他方もう一つの視点をパウロは持っていました。この後に書かれた別の手紙では「むしろ肉体を離れて、主のみもとに住むほうがよいと思っています。」(Ⅱコリント5:8)。「私の願いは、世を去ってキリストともにいることです。」(ピリピ1:23)と書いています。これらの記述から、主の来臨前に自分であれ、他の信仰者であれ、死んでしまっても霊においては主とともにいることになることを彼は確信していましたし、私たちもその真理をそのまま受け取ることができます。けれども、それで終わってしまうのではなく、大事なことは私たちは後に復活の肉体をもってよみがえる時が必ずやって来るという真理なのです。

     

    3,主の来臨は神の力強い主権によって

    起こることである

     

    パルーシアとアパンテーシス

     15節の「(主の)来臨」と訳されたところが、これまでもパウロが記している「パルーシア」というギリシア語です(2:19、3:13、5:23)。これは皇帝や王が町を公式訪問することを言い表すことばです。その際に、町の代表者たちが王を迎えに出て歓迎することをギリシア語で「アパンテーシス」と言いました。その「アパンテーシス」が、17節の「(主と)会うのです」と訳されていることばです。王なるキリストの「訪れ(パルーシア)」の時を私たちが喜んで「迎えること(アパンテーシス)」が、実に主の来臨という出来事の中で起こるクライマックスであり、本質です。これが実際にどのようなかたちで起こるのかについて、具体的な詳細はわかりません。神様の側からは明確なことなのですが、私たち人間にはこの出来事がいかなることなのかを完全に理解することはできないのです(Ⅰコリント13:12、Ⅰヨハネ3:2)。しかし、それは何もわからないとか、曖昧であることを意味していません。パウロがここで伝えていることは、主が来られるとき、すでに召された信仰者たちが最初によみがえり、その時生きているキリスト者たちが次に引き上げられて、ともに主と出会い、主に繋がり一つに結ばれるという事実です。

     

    雲に包まれ、引き上げられ、空中で主と会う

     ここで17節にある三つのことば、「雲に包まれて」、「引き上げられ」、「空中で」について見ましょう。「雲」は旧約時代から、実際の空の雲というよりも神の臨在を象徴するものでした。「雲に包まれて」(直訳は「雲の中で」)とは、神の偉大な栄光ある現れがそこにあることを示しています。私たちは雲のような煙に巻かれるのではなく、神の臨在に包まれるのです。次に「引き上げられ」という語は、ギリシア語で「ハルパゾー」ですが、これが英語の「rapture」(ラプチャー)に対応する語で、日本語では「携挙」と呼ばれてきました。元の「ハルパゾー」ということばは「引き上げる」というよりも、むしろ「暴力をもって奪い去る」という強い表現です。たとえば、パウロが暴徒たちに引き裂かれてしまう危険を悟ったローマの隊長が軍隊に命じて彼を力ずくで連れ去りました(使徒23:10)。それが「ハルパゾー」です。

     主の来臨の出来事で起こることは、号令や天使長の声、神のラッパなどの表現からもわかるように、神が偉大なご臨在のうちに主権をもって介入し、事を行なってくださることを示しています。そして「空中で」ということばですが、これはエペソ人への手紙2章では「空中の権威を持つ支配者」という悪霊の治める領域であるということです。ストット氏が言うように「言わば悪魔の本拠地で、主がそこで聖徒たちに会うことを選ばれたという事実は、主が悪魔を完全に支配しておられ、最終的な勝利を収められることを示すのです」(『Bible Speaks Today』)。

     

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