日本メノナイトブレザレン教団

石橋キリスト教会
礼拝メッセージ 2024.1.28 日曜礼拝

「人のことばではなく神のことばとして」

(テサロニケ人への手紙 第一 2:13-16)

牧師:船橋 誠

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    「人のことばではなく神のことばとして」

     

    テサロニケ人への手紙第一 2:13-16 船橋 誠

     

    1,神のことば

     

    神のことばと人間のことば

     人はどのようにしてクリスチャンになるのかと言えば、それは「神のことば」、聖書のことばに接して、それを信じることによって導かれていくと言えます。パウロが書いたこの手紙には、ギリシア北部の町、テサロニケ(現代では、テッサロニキと呼ばれる)に住んでいた人々が、いかにしてクリスチャンになったのか、そしてその後、彼らはどうなったのか、ということが描かれています。

     パウロが「人間のことば」と対比的に言っているのは、人間が頭脳で考えて生み出した思想、また知恵によるものではない、ということです。テサロニケは港町であり、多くの国々からの船が行き交う戦略上の要衝、交通の要所で、いろいろな人々が集まって来る当時の大都市でした。ですから、テサロニケの住民は、新しい思想や考え方に絶えず触れる機会を持っていました。しかし、いろいろな教えを聞いて来た彼らが、パウロが語るメッセージを聞いて、「これは人間から生じた理想や考えではない。生ける神によって発せられたことばに違いない」と、心に受け止めたということです。

     使徒の働き17章に、その時の様子が描かれています。「パウロとシラスは、アンピポリスとアポロニアを通って、テサロニケに行った。そこにはユダヤ人の会堂があった。パウロは、いつものように人々のところに入って行き、三回の安息日にわたって、聖書に基づいて彼らと論じ合った。そして、『キリストは苦しみを受け、死者の中からよみがえらなければならなかったのです。私があなたがたに宣べ伝えている、このイエスこそキリストです』と説明し、また論証した。彼らのうちのある者たちは納得して、パウロとシラスに従った。神を敬う大勢のギリシア人たちや、かなりの数の有力な婦人たちも同様であった。」(使徒17:1ー4)。

     

    神のことばは内側で働く

     使徒の働き16章で、ピリピでパウロが伝道したとき、リディアという一人の人が主を信じる者とされたことが描かれていますが、そこにはこうあります。「主は彼女の心を開いて、パウロの語ることに心を留めるようにされた」(使徒16:14)。神のことばが語られるとき、主が働かれて、聞く人の心をお開きになると書いています。テサロニケ第一2章13節の「神のことばとして受け入れた」という「受け入れる」と訳された語(ギリシア語;デコマイ)は、「受け取る」という意味もありますが、「歓迎する」、「迎え入れる」という意味でも使われます。このように人の側では、みことばをその人の心の中に喜んで迎え入れたということになるでしょう。

     神のことばとして迎え入れると、どうなるのでしょうか。表面的には何もなかったかのように見えるかもしれませんが、13節の続きを見ると、「この神のことばは、信じているあなたがたのうちに働いています」と書いています。みことばは、人の心の奥底で作用していきます。

     旧約聖書エレミヤ書で、神はこう言われます。「わたしのことばは火のようではないか−主のことば−。岩を砕く金槌のようではないか。」(エレミヤ23:29)。ヘブル人への手紙に「神のことばは生きていて、力があり…」(ヘブル4:12)とあります。「心に植えつけられたみことばを素直に受け入れなさい。みことばは、あなたがたのたましいを救うことができます」(ヤコブ1:21)とヤコブが記しているように、みことばはあなたを救うことができ、そして他の方々を救っていく力が秘められています。

     

    神のことばは成長をもたらす

     「みことばは、あなたがたを成長させ、聖なるものとされたすべての人々とともに、あなたがたに御国を受け継がせることができるのです」(使徒20:32)とパウロも後に語っていますとおり、このテサロニケ第一の手紙では、神のことばを信じて受け入れた人たちは、神よりの救いを受け、そして信仰の成長に至りました。それが14節の「あなたがたはユダヤの、キリスト・イエスにある神の諸教会に倣う者となりました」という文章に明らかにされています。

     「倣う者」ということばは1章6節でも記されていました。「あなたがたも、多くの苦難の中で、聖霊による喜びをもってみことばを受け入れ、私たちに、そして主に倣う者になりました」。2章14節が言い表しているのは、国や民族、文化が違っているのに、不思議と「主に倣う者」となった彼らはどの国の教会であっても皆同じように歩み、すべての「神の諸教会に倣う者」になっているということです。あらゆる違いを超越する共通の信仰者としての特性を持つことができるのです。「主はひとり、信仰は一つ、バプテスマは一つです」(エペソ4:5)。

     

    2,神の御怒り

     

     みことばは、人々をキリストにある者とし、そのたましいを成長させ、信仰の共同体である教会を建て上げていくのです。しかし、そこには戦いがあります。反対や迫害を受けることもあります。それが14節後半から16節に書かれていることです。「キリスト・イエスにあって敬虔に生きようと願う者はみな、迫害を受ける」のです(Ⅱテモテ3:12)。しかし、迫害を行う者、宣教を妨げる者、神のご計画を邪魔して来るものに対しては、神はそれを放っておかれることはない、というのがパウロの説明です。

     16節の終わりに、神が敵対者たちを放置されることはなく、やがて裁きをなさると記されています。「御怒りは彼らの上に臨んで極みに達しています」という文章がそれです。当時のあるユダヤ人たちは、パウロや使徒たちの宣教の働きを絶えず妨害し、テサロニケなどの信徒たちを迫害しました。

     しかし、ここで留意すべきことは、神は信仰をもってご自分に従う者たちを決して見捨てられないという点です。パウロはこの手紙で、終末の希望について明確に記していますが、それは、神のことばに心を開く者たちや、主に倣う者たちにとっての真の希望となるものです。パウロはこう記しています。「御子が天から来られるのを待ち望むようになったかを、知らせているのです。この御子こそ、神が死者の中からよみがえらせた方、やがて来る御怒りから私たちを救い出してくださるイエスです」(1:10)。「神は、私たちが御怒りを受けるようにではなく、主イエス・キリストによる救いを得るように定めてくださったからです」(5:9)と言っています。

     けれども、主の宣教を妨害するあらゆるもの、私たちの信仰を躓かせるあらゆるものは、人であれ、物であれ、霊的なものであれ、それらすべてはこの神の御怒りを避けることはできないのです。2章16節「御怒りは彼らの上に臨んで極みに達しています」とは、神の御怒りが彼らの上にすでに到着して、今まさに下されようとしているということです。J.B.フィリップスの訳では、「神の御怒りが彼らの頭上にある」となっています。砂時計の中の砂粒は確実に下に落ちていき、すべて落ちきってしまうのも、もうすぐなのです。

     

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