ダニエル書 5:1-12
礼拝メッセージ 2024.8.18 日曜礼拝 牧師:船橋 誠
1,大宴会を催す王
千人の貴族たちが集うバビロニア帝国の王が開いた「大宴会」、宮廷晩餐会のような公式な場で、宴もたけなわになった頃、突然「人間の手の指が現れ」たという話です(5節)。その「手」を見つめていた王はあまりの恐怖で顔面蒼白となり、腰が砕けたようになって、膝はガクガク震えて、立ちすくみました。さて、このたいへん不思議な出来事を通して、神はベルシャツァルに何を示したのでしょうか。そして私たちはこれによって何を知り、どんなことを心に覚えるべきなのでしょうか。
5章は紀元前539年の話で、1章の記事から比べると、すでに66年もの歳月が経過しています。ダニエルはかなり高齢であったことでしょう。もし、1章の時点で十二、三歳だったなら、この時八十歳近い年齢だったでしょう。5章になって急に時代が進み、あの栄華を誇ったバビロニアの国が早くも終焉を迎えるときのことが描かれています。ベルシャツァルは、その父ナボニドスと長く共同統治をしていました。バビロニアの国は、ネブカドネツァルの治世約四十年間で隆盛を極めましたが、その後に続く王たちはすべて短命政権であり、国としては約七十年程で、メディア、ペルシアに攻められて滅びることになりました。
5章最初の場面では、千人もの貴族が集められて大宴会が催され、ベルシャツァルは自らの終わりの日が近いことを悟ることもなく、ただ酒に酔いしれて、大勢の人々を前に自らの権勢を誇っていたことが描かれています。しかも、この書でベルシャツァルという人物の行動や姿が記録されているのはこの5章だけであることを見ると、聖書の視点は、このベルシャツァルという人物が、大勢の貴人を招いて宴を催した王として見ているということです。もちろん、彼が王として、人間として行なったことや業績も多々あったことでしょう。しかし、聖書は、国家権力の中に生きたこの一人の王の生涯を、この宴会の出来事の中に集約させているのです。
2,権力誇示のための大宴会
聖書の他の箇所にも、権力者たちが催した宴会の様子を描いているものがあります。たとえば、エステル記です。クセルクセス王がスサの城内で家臣、有力者、貴族、諸州の首長たちを集わせた大宴会の記事があります(エステル1章)。新約では、領主ヘロデの誕生祝いのシーンが思い起こされます。この時、ヘロディアの娘が踊りを披露しました(マタイ14:1〜12)。いずれの場面でも、王がその権力を恣にしていることを強く示すものでした。王自らの意志でどんなことだってできるのだという絶対的な権力を誇示するために、人々の面前で極端な行動を取っています。クセルクセス王の場合は、王妃ワシュティを突然廃位したということ。ヘロデの場合は、バプテスマのヨハネの斬首でした。一人の人間の人生でも、生命でも、権力で簡単にひねりつぶすことができる、すべてのことは思いのままというわけです。
ベルシャツァルの場合は2節です。「ベルシャツァルは、酒の勢いに任せて、父ネブカドネツァルがエルサレムの宮から持ち出した金や銀の器を持って来るように命じ」ました。「父ネブカドネツァル」とは実際の親子関係のことではなく、歴代の王に対する尊称です。ここではわざわざエルサレム神殿から奪って来た金と銀の器が宴の座を連ねる人々に配られ、その器で皆が酒を飲んだということです。さらに金銀青銅などで造られた偶像の神々をその場で讃えました。それは一見すると単なる戯れの余興のように思った者たちもいたでしょうが、そんな単純なものではありませんでした。聖書が明らかに示していることは、このベルシャツァルの行為は、恐ろしい罪であり、すべてを支配している「いと高き神」に対する度を越した冒涜であり、大胆不敵な挑戦であったということです。
3,問われる神との関係
かつての大王ネブカドネツァルがその身を以て謙りを学び賛美した神ヤハウェのことを、ベルシャツァルもこれまで聞いていたと思います。しかし彼は愚かにも自らの権力を過大評価し、正しい危機感を抱くことなく、その欲望に溺れ、神を無視した権力者となっていたのです。「神とは何か、この世界とは何か、すべてこの自分の手の中に握りしめることができる」と、彼は心の中で驕り高ぶっていました。これは最終的に神の前に謙ったネブカドネツァル王とは対象的です。ベルシャツァルの生涯のすべては、この宴会における真の神への冒涜行為に表れています。聖書によると、結局、人間の生涯というものの判断は、その人が真の神との関係においてどうであったのかということに尽きるのです。神に対して謙って歩んだのか、従順だったのか、それとも逆らい続け、高慢に歩んだのか。私たちもこの時代において、いかに生き、いかに従い、仕えたのか、それが問われていることを心に留めましょう(伝道12:13)。
4,王母の中に見る希望の灯火
ベルシャツァルと宴会に集った貴族たちだけの話に目を留めると、この世の闇と罪に目が奪われますが、よく見ると、わずかながら希望の光が見て取れます。それは10節から12節に出て来る「王母」の存在です。「いろいろと思い巡らし動揺してはいけません。顔色を変えてはいけません」と言い放って、王を諌めるような言動をしたこの「王母」の姿は、恐怖に慄くベルシャツァル王や貴族たち、そして王の命令で呼ばれてその意味を解読できずに立ち尽くすばかりの知者たちとは、全く異なった雰囲気を感じさせます。彼女は、この異常事態に動じることなく、正しく適切なアドバイスをベルシャツァルに与えました。
それでは、途方に暮れる人々と王母との違いは、一体どこにあったのかと言うと、それは「聖なる神の霊の宿る人」ダニエルを認識していたことに表れています。王や貴族たちの思いはこの世の権力に向けられていたのですが、王母の心にはバビロンの国にこれまで起こっていた神の働きや出来事に対する純粋な思いがありました。彼女はダニエルに与えられた神の賜物を素直に認めるような謙虚さがあり、それは信仰心に近いものでした。この世の権力と欲望に心奪われ、複雑に絡まり合う人間模様の宮殿の中で、このように真の神に対して心を開き、その神より受けた賜物を持つ優れた人に純粋なまなざしを注いでいる一人の女性をダニエル書はここに描いています。これは、神の真理や恵みから程遠いと感じられる場所や人々の中にも、実は神の真実を求める誠実な人たちが存在することを私たちに知らせています。人間の目からは福音の光から遠く隔たっていると思われるところにいる人々のうちに、真理を求める失われた羊がいることを忘れてはならないのです。