「永遠の主権者」

ダニエル書 4:19-37

礼拝メッセージ 2024.8.11 日曜礼拝 牧師:船橋 誠


1,歴史の中に働かれる神

4章の中心人物 ネブカドネツァル

 4章後半を見ていますが、振り返ると、ダニエル書は1章と2章はダニエル、3章ではシャデラク、メシャク、アベデ・ネゴの三人が主役のような流れでした。この4章はネブカドネツァルが一人称で語り、神の懲らしめを受けて回復する話で、あたかもこの異国の王が主人公のように見えます。ネブカドネツァルは異邦人で異教徒であり、南ユダ王国を滅亡させたバビロニア帝国の王です。彼はユダヤから見れば敵の大将です。しかし不思議なことに4章の話の中心はネブカドネツァルです。ここにダニエル書が語る真理の一端が映し出されています。
 それは聖書が啓示する神が、ユダヤの人々の間だけで働かれる神ではなく、この世界のすべての人々に対して「主権者」であるということです。神はすべてのものを支配しているお方ゆえに、たとえ外国の王であっても、そこに関わっておられます。全能の神の支配の外側に存在するものは何もありません。すべての時代、あらゆる民族、あまねく地において、創造主である神は絶えずどこででも働いておられ、絶対的な主権をお持ちです。4章が、ネブカドネツァルという一人の人間のことを通して語りかけているメッセージは、第一に「歴史の主権者は誰ですか」、という問いであり、第二に「あなたの人生における主権者は誰ですか」、という問いかけがなされています。

この世界のために祈る

 ネブカドネツァル王は、この国も自分の人生も主権はこの私が握っていると考えていました。「しかしそうではない」と寝床で見た夢は語り、ダニエルもそう告げました。「いと高き方が人間の国を支配し、これをみこころにかなう者に与え、また人間の中の最も低い者をその上に立てる」(17節)ことが明らかにされました。ネブカドネツァルに向って、そして読者に対して「主権者はあなたではなく、いと高き神である」と御言葉は断言しています。これは新約聖書でも語られていることです。パウロのことばを引用しましょう。「神は、一人の人からあらゆる民を造り出して、地の全面に住まわせ、それぞれに決められた時代と、住まいの境をお定めになりました」(使徒17:26)。「人はみな、上に立つ権威に従うべきです。神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、神によって立てられているからです。」(ローマ13:1)。時代も、民族も、国家も、すべて神のお許しなしに存在しないのです。
 だから、私たち信仰者は、この世界に対して、神の平和の御心が支配するようにと願い、祈ることができるし、そうすべきであると聖書は教えています。「王の心は、主の手の中にあって水の流れのよう。主はみこころのままに、その向きを変えられる」(箴言21:1)。「すべての人のために、王たちと高い地位にあるすべての人のために願い、祈り、とりなし、感謝をささげなさい。」(テモテ第一2:1)。


2,人生の中に働かれる神

神からの忠告

 4章が告げていることの第二は、神は国や社会という大きな範囲のことだけでなく、私たち一人ひとりの生涯の中においても働いておられるということです。4章最後を読むとネブカドネツァルは敬虔な信仰者になったかのようですが、確かなことはわかりません。しかし明確なことは、私たちが人生の中において神によって取り扱われるように、彼も同様な経験を与えられたということです。
 ダニエルから夢の解き明かしを聞いたとき、ネブカドネツァル王はその場で即座に謙り、方向転換をすべきでした。けれどもそうしませんでした。ダニエルからの忠告は27節です。「それゆえ、王よ、私の勧告を快く受け入れて、正しい行いによってあなたの罪を取り除き、また貧しい者をあわれんであなたの咎を除いてください。そうすれば、あなたの繁栄は長く続くでしょう」。しかし29節では「十二か月たって、バビロンにある王の宮殿の屋上を歩きながら、王はこう言っていた。『この大バビロンは、王の家とするために、また、私の威光を輝かすために、私が私の権力によって建てたものではないか』。ヘブル人への手紙には「けれども彼らには、聞いたみことばが益となりませんでした。みことばが、聞いた人たちに信仰によって結びつけられなかったからです」(ヘブル4:2)とあるように、王は聞いたが、それを自分事として受け止めなかったということでしょう。

野の獣の如くに

 それでネブカドネツァルが受けた神の懲らしめは、理性を失って、人間社会から追い出されて、野の獣のようになることでした。33節「彼は人の中から追い出され、牛のように草を食べ、そのからだは天の露にぬれて、ついに、彼の髪の毛は鷲のように、爪は鳥のように伸びた」。中島敦著『山月記』で、優秀な詩人であった人物が発狂していつの間にか恐ろしい人喰い虎の姿に変身してしまう哀れな話を思い出しました。ある解釈者たちは、自分が人間以外の狼や動物のような姿をしていると思い込んでしまう精神疾患(リカントロピー lycanthropy)ではないかと推測していますが、明確なことはわかりません。
 「七つの時」とはおそらく七年でしょう。ネブカドネツァルが野の獣の如く変わったのは、神から与えられた懲らしめでしたが、別の視点で考えると、頑なさや強情さという彼の持っていた心が外側に現れて、このような変化をもたらしたとも言えるでしょう。シェイクスピアの『リア王』に「人間、衣服を剥ぎ取れば、ただの二足獣にすぎぬ」というセリフがありますが、この変身がネブカドネツァルの真の姿の一面を映し出していたのかもしれません。
 ネブカドネツァルがこの厳しい状況から回復していくために必要なことは、七年間という一定の期間をやり過ごすことでした。そして「目を上げて天を見る」(34節)ことが求められました。この「天」は「神」のことです。ダニエルのことば(25節)とも考え合わせると、自分の帝国だけではなく、自分の人生の主権者が誰であるのかを悟ったとき、彼は正気に返ることができたのです。
 すべての主権は神にあるということ、人生の中にいと高き神が働かれていることを認めること、これが彼を生まれ変わらせました。神学者の北森嘉蔵氏が語ったように、歴史も人生も、人間の目には、どうしても「割り切れないもの」があり、複雑かつ錯綜したところがあります。しかし、歴史あるいは人生において、「神がその中に確かに働いておられること」を信仰をもって認めることにより、「割り切れないもの」に一つの流れが見えていき、そこに筋が通ることになり、それが「救い」に繋がっていくということです(参照;創世記50:20)。