「夢を通して語られる未来」

ダニエル書 4:1-18

礼拝メッセージ 2024.8.4 日曜礼拝 牧師:船橋 誠


1,神は、夢でネブカドネツァルに語られた

 「私ネブカドネツァルが私の家で…」(4節)とあるとおり、たいへん珍しいことに、今回の聖書箇所では、ネブカドネツァル王(二世)自身が、一人称で自分のことを語っているのです。「古代オリエントでもっとも有名な王」(『世界史小辞典』山川出版社)と歴史上よく知られているこの王が、自分の口で18節まで語っています。19節からは一時中断して三人称の記述に戻りますが、また34節から王自身によることばとなっています。しかし、このことには大切な意味が込められていると思います。第一は、ネブカドネツァルのような当時の異教の巨大権力者であっても、全知全能で遍在の神は、御心のままに直接夢で語りかけ、ご自身の御思いを伝達することができるということです。ネブカドネツァルのような専制君主に当時誰が直接語りかけ、正しい道や神の御心を教えることができるでしょうか。これは人間には不可能なことでしょう。けれども、神には何の妨げも障壁も存在しないのです。ご自身の御意志によって自由自在にどんな人にもアクセス可能なのです。


2,神は、ネブカドネツァルの罪を示された

高慢の罪

 第二に、このネブカドネツァルのひとり語りによって、どんなに高い地位にあっても、異邦人(異教徒)であっても彼もまた私たちと何も変わらない同じひとりの人間であることを示しています。それによって、この人物が持っていた罪の問題も、私たちと全く無縁のものではないということを教えているのです。その霊的な課題とは、まさに高ぶりのことであり、神を主権者として正しく認めようとしない罪のことです。
 30節で王がこのように豪語できるのは、この世的に見ればわかることです。歴史に登場した新バビロニア帝国は、確かにこのネブカドネツァルのカルケミシュの戦いの輝かしい勝利や、エルサレム陥落など、彼の立てた数々の功績によって、領土が広がり、豊かな繁栄がもたらされました。彼が寝床で見た巨大な樹木の夢のように、彼が築いた帝国は広大なオリエント世界を一つにまとめ、強い国にしたのでした。しかし、この夢は木がその豊かな枝ぶりを示して、繁栄を預言して終わることはありませんでした。天から突然、「見張りの者」、「聖なる者」が現れて、こう叫びました。「その木を切り倒し、枝を切り払え」と。そして夢の中でその「木」はいつの間にか人間のかたちに変わって、「獣の心」を持つ者とされ、人間界から追い出されてしまうのです。

神への愚かな挑戦

 たいへん奇妙な夢です。しかし、これがネブカドネツァル王が神から夢で語られた内容でした。夢が示す出来事はそのとおりに起こることになります(28節)。ダニエル書の中でネブカドネツァル王が登場する最後の話で、当時の絶対的支配者であった彼に対して、いと高き神が語ろうとしていたことがここで明らかにされています。それはあらゆる主権は神のものであって、ネブカドネツァルにはないということです。
 振り返ってみると、1章ではネブカドネツァルがエルサレムを包囲して滅ぼし、神殿にある器を奪い取ってバビロンの神々の宝物庫に納めたのでした(1:1〜2)。これによってネブカドネツァルは、イスラエルの神よりもバビロンの神々のほうが上であると主張したのです。2章では、彼が見た巨大な像の夢をダニエルが解き明かしました。この時、その像は、金、銀、青銅、鉄などの合成体で、ネブカドネツァルの建てた国が永遠ではなく、次々と別の王国が現れて盛衰を繰り返し、やがてそれらの国々を滅ぼす永遠の御国が来たることを明らかにしました。ところが3章で、ネブカドネツァルはその預言に対して逆らうように、自分を象徴する金だけで造った巨大な偶像を立て人々に拝ませ、自分の創り上げたバビロンこそ永遠であると真の神に挑戦したのです。


3,神は、ご自身が全ての主権者であることを示された

主は「いと高き方」

 4章全体の中心聖句の17節後半には「これは、いと高き方が人間の国を支配し、これをみこころにかなう者に与え、また人間の中の最も低い者をその上に立てることを、いのちある者たちが知るためである」とあります。これは古典の文言にあるような「盛者必衰」という世の無常観を言うのではなく、「いと高き方」が支配しているということです。『MB信仰告白』の冒頭は「全てのものの主である神は…」で始まっていますが、まさにそういう意味です。神は「全てのものの主」、主権者であられる神です。
 イザヤ書14章に「バビロンの王」の高ぶりについて預言された箇所があります。「おまえは心の中で言った。『私は天に上ろう。神の星々のはるか上に私の王座を上げ、北の果てにある会合の山で座に着こう。密雲の頂に上り、いと高き方のようになろう。」(イザヤ14:13〜14)。これがネブカドネツァルを指しているのか、それとも、悪魔やサタンを指しているのか、種々言われていますが、いずれにしても、「いと高き方のようになろう」が、神に歯向かう敵たち共通の決定的セリフです。
 悪魔にしても、高慢な支配者たちにしても、彼らは言います。「いと高き方のようになろう」と。「贖い主になろう」とか、「助け主になろう」とは言わないのです。最も高い所に自らを置くこと、それが彼らの強い願望です。ですから、それに対応して、ダニエル書4章では、「いと高き神」が一回(2節)、そして「いと高き方」が五回繰り返されています(17、24、25、32、34節)。どなたがすべての主権を持っているのか、一番高い所におられ支配しているのか、それを明瞭に示すのです。

高慢は破滅に先立つ

 もちろん、おそらく私たちの誰一人として、ネブカドネツァルのような絶対権力者ではないでしょう。しかし程度や状況の違いはあっても、高慢な心を抱くことは誰にでも起こることです。「悪しき者は高慢を顔に表し、神を求めません。『神はいない。』これが彼の思いのすべてです。」(詩篇10:4)。この4章で知る限り、大切な点はネブカドネツァルは確かに「七つの時」の期間、獣のように野で暮らす狂人となりましたが、完全に滅ぼされたわけではありませんでした。そういう意味では、この夢もまたその後起こったことも、それはさばきの前段階であって、予め発せられた警告であり、一時的な懲罰でした。神は、高慢であることに気づかぬネブカドネツァルに対して警告をされたのです。「人の心の高慢は破滅に先立ち、謙遜は栄誉に先立つ」(箴言18:12)。完全に破滅してしまう前に、憐れみ深くも神は、彼にチャンスを与えました。ですから、4章終わりでネブカドネツァルはこう結んでいます。「高ぶって歩む者をへりくだらせることのできる方である」(37節)。