「この方がキリストなのでしょうか?」

ヨハネの福音書 4:16-30

礼拝メッセージ 2024.7.28 日曜礼拝 牧師:南野 浩則


サマリヤの女性の理解の変化

 サマリヤの女性は、ユダヤ人男性であるイエスとの出会いによって徐々にではありましたが、変化を示していきます。イエスが自らの経歴を述べたことにこの女性は驚きつつも、イエスが特別な存在であることを悟り始めます。その証拠として、彼女の方から話題を自分が関心のあった「水」から礼拝の場所・形式へと話題を変えていきます。


ユダヤとサマリヤとの問題

 イエスの語る「いのちの水」とユダヤ人であるメシヤとはどのように関連付けられるのでしょうか?サマリヤ人たちはユダヤ人たちが認めない場所や形式で神を礼拝していました。その違いは、ユダヤ人がサマリヤ人を差別する一因となっていました。しかし、イエスはそのような宗教的な壁を越えて、イエスは自らを信じるようにとこの女性を導きます(21節)。
救いはユダヤから来ると言われていますが、同時にその限界について述べられています。礼拝は場所・形式にとらわれるべきではないということです。それを超えて霊と真とによって礼拝するときが到来していることをイエスは宣言するのです。


サマリヤの女性が見えてきたこと

 サマリヤの女性はメシヤの到来とともに、すべてが明らかにさることを知っています。それは、分からなかったことが理解され、問題が解決することです。救いの場所や形式についてこの女性には疑問があったようです。また、宗教の違いが差別を生むことにこの女性は矛盾を感じていたようです。イエスが自らをキリスト(メシヤ)と宣言したことは、この疑問や矛盾が解決する時が間近に迫っていることを意味しました。


イエスの福音

 まず確認しておきたいことがあります。霊と真によって礼拝するとは、ヨハネ福音書3章でのイエスのニコデモとの対話で扱われていました。そこでは、霊によって生まれ変わることの重要性が語られたのですが、そこでカギとなるのはこの地上での証言でした。つまり、イエスに関する証言であり、それはイエスの生涯・死・復活です。霊として新しく生まれ、霊として礼拝することとは、イエスを信じて神を礼拝することなのです。
 サマリヤの女性は、イエスが自らメシヤであるという宣言を聞きます。ここで指摘しておかねばならないことは、神への礼拝の本質が場所や形式ではないことです。もちろん礼拝形式は重要ですが、最も重要な事柄ではありません。それを最も重要なこととしてこだわることで、形式の違い・場所の違いを理由に自分とは違う人々を差別する結果になることがあります。サマリヤ人への差別の一因にこのような宗教的事柄があります。イエスはサマリヤの女性に声をかけることで民族と性差の壁を超えただけでなく、自らがメシヤであることを訴えることで、神の救いも人々の壁を超えて行くことを、宣言したのです。
 イエスの弟子たちが状況をつかめずに困惑しているのとは対照的に、イエスの宣言はこの女性を民族と性差の壁から解放するメッセージとなっていきました。だからこそ、まだ確信はなくとも、彼女は町に出ていって人々にイエスのことを伝えたのです。イエスのメッセージは人々が様々に捕らわれている考え方から解放します。また、その考え方がもたらす苦しみから人々を解放します。だからイエスの言葉は福音なのです。だからイエスを礼拝することは霊と真による礼拝なのです。