「御力を証明する神」

ダニエル書 3:19-30

礼拝メッセージ 2024.7.21 日曜礼拝 牧師:船橋 誠


1,もし、そうなれば神は私たちを救い出す

二つの「もしも」(if)

 3章全体は17節と18節が中心であり、これがこの章の伝えたいことのすべてを言い表しています。信仰の本質を描いているという意味では、この書全体のみならず、聖書全体が示す「神の御業と信仰」という非常に重要なテーマを教えていると思います。「もし、そうなれば、私たちが仕える神は、火の燃える炉から私たちを救い出すことができます。王よ、あなたの手からでも救い出します。しかし、たとえそうでなくても、王よ、ご承知ください。私たちはあなたの神々には仕えず、あなたが建てた金の像を拝むこともしません」(17〜18節)。
 この二つの節は、どちらも「もしも」ということばから始まっています。17節「もし、そうなれば…」、18節「しかし、たとえそうでなくても…」で、ともにアラム語で、「ヘーン」という語で「もし〜ならば」の意味で、それが文頭にあります。ですから17節は「もし、そうならば」(アラム語;ヘーン・イータイ)であり、18節は「しかしもし、そうでなくても」(ヴェ・ヘーン・ラー)となっています。シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴ三人の言ったこの表現は、二つの「もしも」という未来を語っているのです。17節は「神は彼らを燃える炉から救い出す」という、言わば「仮定1」です。18節は「神は彼らを燃える炉から救い出さない」という「仮定2」です。

神は彼らを救い出された

 3章後半が述べる実際の結末は「仮定1」になったということです。それでまず、「仮定1」のほうを見ていきましょう。神は、信仰者である彼らを超自然的な奇跡によって、救い出されました。火の燃える炉の中に投げ込まれて、かすり傷一つ負わず、髪の毛も衣服もそのままだったというのは、ふつうは絶対にあり得ないことです。
 この彼らが投げ込まれた「火の燃える炉」というものが、実際にどんなものであったのか、明確にはわかっておりません。ただ、J.G.ボールドウィンの『ティンデル聖書注解 ダニエル書』には、紀元前二千年頃の古代メソポタミアの遺跡で出土したものが参考として紹介されています。それによると、その窯は一方の端が塞がれ、他方の端が開いている鉄道トンネルのようなかたちで、等間隔に立てられた何本もの柱が円形の屋根蓋を支え、同時に換気口の役目を果たしているというものだったようです。炉自体は木炭を燃やして熱せられましたが、おそらく摂氏九百度から千度にまで及ぶものだったそうです。
 ダニエル書では、激怒した王が普通よりも七倍も温度を上げた(19節)と書いていますが、おそらくそれはその窯の限界にまで温度を上げたということを表しています。そのため三人を炉に投げ入れた者たち自身が焼け死んでいます(22節)。しかし彼らが王に対して17節で予め語っていたように、神は彼らをご自身の力ある御業によって完璧に守り、救い出されました。これは神による全くの奇跡でした。
 このことを通して、私たちがまず知るべき真理は、神はいかなる危機、困難、迫害の中にあっても、信仰者たちを守ることができ、救い出すことがおできになるということです。まさにイザヤ書43章1節から2節の主の約束のようにです。「恐れるな。わたしがあなたを贖ったからだ。わたしはあなたの名を呼んだ。あなたは、わたしのもの。あなたが水の中を過ぎるときも、わたしは、あなたとともにいる。川を渡るときも、あなたは押し流されず、火の中を歩いても、あなたは焼かれず、炎はあなたに燃えつかない」。ですから、すべてを主に委ねましょう。


2,しかし、たとえそうでなくても

話すのは父の御霊

 しかし、他方18節で述べられているように、シャデラクら三人は「仮定2」もあり得たことを語っています。つまり、3章後半にあるような奇跡は何も起こらず、彼ら三人が燃える炉の中で焼け死んでしまうという結末です。想像したくないかも知れませんが、この「もしも」の場合も、それが御心ならば確かに起こり得ると、彼らは承知していたのです。
 聖書が記す迫害や苦難の物語は、すべてにおいて奇跡が起こり、「めでたし、めでたし」で終わっているかと言うと、決してそうではありません。旧約聖書でも多くの信仰者たちが敵対者たちの剣によって命を落としています。だから主は旧約聖書の初めから終わりまで正しい人々の血が流されたと律法学者やパリサイ人たちに言われました(マタイ23:35)。新約聖書では、ステパノやヨハネの兄弟ヤコブが殺された記事がありますし(使徒7:59〜60、12:2)、伝えられているところでは、使徒ペテロもパウロも、最期は殉教の死を遂げています。
 奇妙に思われるかもしれませんが、私はこの18節のことばにも、別の意味での奇跡が現れていると思っています。というのは、いのちが脅かされるという人生最大の危機状況においてさえ、三人の青年たちはこうも大胆に信仰を証しできたこと自体、人間的に考えれば尋常なことではありません。いのちよりも大事なものがあり、たとえそのためにいのちを失うことになったとしても構わないと言い切れるものが彼らにはありました。でもそういうと、単に彼らを信仰の英雄扱いするだけで、「すごい」の一言で終わりになると思います。確かに彼らの信仰は素晴らしかったのですが、聖書はそういう彼らを称賛するためにこの話を残したわけではないと思います。18節のことばは、この三人の内側から生まれたものではないと私は思います。イエスがこう仰せになっています。「あなたがたは、わたしのために総督たちや王たちの前に連れて行かれ、彼らと異邦人に証しをすることになります。人々があなたがたを引き渡したとき、何をどう話そうかと心配しなくてもよいのです。話すことは、そのとき与えられるからです。話すのはあなたがたではなく、あなたがたのうちにあって話される、あなたがたの父の御霊です。」(マタイ10:18〜20)。彼らのことばもまた御霊の働きでした。

第四の者の存在

 燃える炉の中に、シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴの三人に加えて、第四の者の神々しい姿がありました。けれども王に呼び出されて、炉から出て来たのは三人だけであり、第四の者の姿はありません。この方はおそらく「御使い」か、あるいは神的な存在である「主の使い」なのかもしれません。もしそうなら、私はこの燃え盛る炉の中でたとえ彼らが焼け死ぬような結果になっていたとしても、また王やその他の者たちには三人のほかに何も見えなかったとしても、この「第四の者」は彼ら三人とともに間違いなくおられたはずだと思います。あるスタディバイブルの25節にこう記されていました。「このような臨在は、最終的にイエス・キリストの御姿においてインマヌエルとして現れる神の救いの本質を思い起こさせます。当時も今も、キリストは人生の「炉の経験」の中で、しばしばご自分の民と最も深く出会われるのです。」(『ゴスペル・トランスフォーメーション・バイブル』 下線は筆者)。