ダニエル書 3:1-18
礼拝メッセージ 2024.7.14 日曜礼拝 牧師:船橋 誠
1,ネブカドネツァルが造った金の像
なぜ、金の像だったのか(1節)
ネブカドネツァル王が造らせた金の像は巨大なものでした。「その高さは六十キュビト、その幅は六キュビトであった。彼はこれをバビロン州のドラの平野に建てた」(1節)とあり、メートル法に換算すると高さ約二十六メートルです。ここで注目したいのはこれが「金の像」であったということです。それは2章にあった記事のとおり、ネブカドネツァルが見た夢に基づいてこの像を造ったからでしょう。振り返ると、「その像は、頭は純金、胸と両腕は銀、腹とももは青銅、すねは鉄、足は一部が鉄、一部が粘土でした。あなたが見ておられると、一つの石が人手によらずに切り出され、その像の鉄と粘土の足を打ち、これを粉々に砕きました」(2:32〜34)。そしてダニエルが解き明かしたことに基づくと、それらの部位による材質の違いは、歴史の中で変遷していく「諸王国」が暗示されていました。伝統的解釈では、バビロニア、メド・ペルシア、ギリシア、ローマの諸帝国が預言されているということでした。しかし、最終的には「石」として象徴されているキリストが世界の王国を打ち砕いて滅ぼし、成長して全地を満たすということです。
ダニエルから解き明かしを聞いて、ネブカドネツァルは彼と三人が信じている神をほめ、彼らを良い地位につけました。しかし、心からその解き明かしの内容に同意し、謙遜にそれを受け止めていたわけではなかったということが、この3章で明らかにされています。「私が金の頭であるなら、なぜ足の先に至るまでの全部が私を象徴する金となっていないのか。私の王国が終わってしまうことなどあり得ないし、それを認めるわけにはいかない。私の王国、バビロンは永遠だ!」と、そんなふうに考えたのでしょう。だから、その夢に表された神の啓示に強く対抗するため、すべての部分が金で造られている、あるいは金で覆われている巨大な像を造らせたのです。建てられた場所は「バビロン州のドラの平野」でした。「ドラ」の正確な場所は不明ですが、バビロンの平地であったことは創世記11章の「バベルの塔」の話を思い起こさせます。「バベルの塔」は人間の高慢、神への愚かな挑戦行為の象徴でした。「彼らはシンアルの地に平地を見つけて、そこに住んだ。…『さあ、われわれは自分たちのために、町と、頂きが天に届く塔を建てて、名をあげよう。』…その町の名はバベルと呼ばれた。」(創世記11:2、4、9)。
金の像を拝め、拝まぬ者は燃える炉へ(2〜7節)
権力を握った人間の欲望は果てしがありません。どこまでもそれを追求し、拡大し、絶対的な支配を行き渡らせようと、もがき続けるのです。ネブカドネツァルは、帝国の支配権を確立するために、支配の道具として人々の信仰心を利用しました。「もし従わぬ者がおれば、燃え盛る火の炉に投げ込んで、焼き殺す」と脅しました。今日の箇所を読んで、おそらく同じ表現の繰り返しに戸惑われたと思います。これはダニエル書の特徴でもあるのですが、ただ、そこに著者の表現意図があることも確かです。2節「太守、長官、総督、参議官、財務官、司法官、保安官…すべての高官」というのがすぐ3節で繰り返され、部分的には27節にも出て来ます。
それから、4節で「諸民族、諸国民、諸言語の者たち」とありますが、これも7節、29節、4章1節に見られます。これらの表現は、支配していた帝国がしっかりと組織化されていて、王によって統率されていたことを示しています。そして「諸民族、諸国民、諸言語」というように、絶大な権力が世界の隅々にまで浸透して広がっていたことを表現しているのです。この繰り返しの文章だけでも、巨大権力を持った組織による圧迫感が伝わるように思います。
もう一つの何度も繰り返されている表現は、楽器のリストです。5節「角笛、二管の笛、竪琴、三角琴、ハープ…」といった文章です。7節、10節、15節です。今となっては、これらが実際にどんな形をしたどんな音色のものであったのか、何もわかりません。しかし、数々の楽器のリストを繰り返しを読んでいると、何か音楽が聞こえてきそうな気がします。こうした表現が示していることは、今も昔も音楽の力や舞台装置を用いて、権力者たちは人々を惑わし、気持ちや情緒に訴えて、人心を操作していたということです。
2, シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴ
カルデア人たちの中傷(8〜12節)
これらの巨大な偶像による圧力や音楽、そして脅しに対して、決して惑わされない人々がいました。それがシャデラク、メシャク、アベデ・ネゴです。三人は、8節にあるように、カルデア人たちからの妬みや憎悪から中傷を受け、訴えられたのでした。昨日今日捕虜として外国から連れて来られた者にすぎない彼らが、2章の一件によって突然昇進して、諸州の行政官とされたことに、宮廷人たちは面白くありませんし、大きな嫉妬心と恨みを抱いたのでしょう。
王の前に立つ三人の信仰の勇気(13〜18節)
像を拝まないという訴えで三人は王の前に呼び出されて尋問を受けました。王は彼らの弁明次第では許してやろうと、その機会を与えたように見えます。「今、もしおまえたちが、…ひれ伏して、私が造った像を拝むなら、それでよい」(15節)と彼らに語りかけます。この15節はアラム語は「ヘーン・イーテイコーン・アティディン」で、「もし、あなたがたに準備があるなら」と文が始まっています。それと対照的に語られる三人の返答が17節です。アラム語で「ヘーン・イータイ・エラハナー」、直訳は「もし、私たちの神がいるなら」です。「ヘーン」が「もし〜なら」という意味で、「イーティ」とか「イータイ」という単語は、「〜がある」(there is…)の意味です。王は、「あなたがたの信仰を翻す準備があるなら」と問いかけ、彼らは「私たちの神がおられるならば」と切り返しています。ここにネブカドネツァルと、シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴの考え方の前提が根本的に異なっていることが明らかにされています。人間がどんな信仰を持つかどうかということではなく、すべてを支配している真の神がおられるかどうかを三人は問題としているのです。
彼ら三人がなぜ、命の危険を冒してさえも偶像を拝むことを拒絶したのかが、ここに明らかにされています。17節全体を直訳すると、「もし、私たちが仕えている私たちの神がおられるなら、私たちを救い出させることができる。火の燃え盛る炉の中から、王であるあなたの手から、彼(神)は救出する」。「主権者なる神が存在され、それ以外のものを神として拝むことは禁じられている。だからそんなことは絶対にできない」。それが彼らの答えでした。それで18節の「たとえそうでなくても」という無条件の神への信頼、服従ということが明確に宣言されるのです。この18節はこの世の権力と誘惑に対する完全な勝利宣言です。