テモテへの手紙 第一 4:1-5
礼拝メッセージ 2024.6.23 日曜礼拝 牧師:太田真実子
1,感謝して受けるように、神が造られたもの(1−3節)
パウロは、“真理の柱と土台である、生ける神の教会においてどのように行動すべきか”ということについて述べた後、再び偽教師たちに関する注意を促しています。この手紙で繰り返し偽教師の問題が取り上げられていることから、教会がいかに偽教師たちの影響を受け、深刻な事態になっていたかということが伝わってきます。
ここでは、偽教師たちの存在よりも、その教えの内容に重点が置かれています。取り上げられているのは結婚や食物に関する間違った禁欲主義の教えのことで、パウロはそれらについて、「信仰があり、真理を知っている人々が感謝して受けるように、神が造られたもの(3節)」だと反論しています。
良心が麻痺した、偽りを語る者たち
偽教師たちの出現は、「御霊が明らかに言われるように(1節)」と言われているように、御霊の啓示によれば想定内のものだったようです。「後の時代になると(1節)」について、新約聖書でこのような表現が用いられるときには“終わりの日”を指していることが多いのですが、ここでは直接的な再臨の時というよりも、もっと差し迫った近い未来を意味していると思われます。
パウロが言うには、良心が麻痺した偽教師たちの影響によって、信仰から離れる人が続出するということですが、それは偽教師たちのせいであると同時に、「惑わす霊と悪霊の教え」によって人を真理のキリスト教から迷い出させてしまうサタンの働きによるものでもあることが分かります(1節)。
「良心が麻痺する」とは、直訳すると「焼き印を押される」という言葉で、つまり「サタンの所有物として焼き印を押された」という意味合いが込められていると考えられます(対照的な意味で、ガラテヤ6:17)。文脈も考慮すると、「焼き印のために善悪の判断ができなくなってしまった」ということでしょう。この手紙全体では、キリスト者の「きよい良心」「正しい良心」が強調されているからです。(エペソ4:19では、神から遠く離れている者が、無感覚となり善悪の判断ができなくなっている状態にあることが語られています。)
偽教師たちによる間違った禁欲主義
「良心が麻痺した、偽りを語るものたち(2節)」、すなわち善悪の判断ができなくなってしまっている偽教師たちは、すでに「結婚することを禁じたり、食物を断つことを命じたり(3節)」していました。これらは、肉体や物質は悪だという思想からくる禁止だったと言われています。欲望を断つことで、高い精神状態に到達することができると考え、誤った宗教的な禁欲主義が語られていました。
それに対してパウロは「食物は、信仰があり、真理を知っている人々が感謝して受けるように、神が造られたもの(3節)」だと反論しているわけです。キリスト者は、食物を造られたのは神であり、神が人々を養ってくださっていることを知っています。ですから、キリスト者が感謝して受けることを神が願っておられるということです。(食物がキリスト者のためだけに造られたという意味ではありません。)ここでは食物を例に語られていますが、結婚も同様です。
「欲望を断つこと」については、パウロ自身もキリスト者たちに勧めているような表現が手紙の至る所に見受けられます。直前の3章だけを見ても、教会の監督職・執事の職に就く者は非難されるところがないようにと勧めていたばかりです。一見、偽教師たちの禁欲主義とパウロの教えは通ずるところがあるようにも思われます。しかし、パウロの知っている真理は、偽教師たちのそれとは全く異なるものです。パウロが教会の兄姉たちに指導しているのは、神の教会を健全に建て上げ、神の福音が宣べ伝えられるように、きよい良心によって歩んでいくべきことを教えているものであり、からくる救いがあるとは考えていません。私たちの救いは、ただキリストによってのみ与ることのできるものです。パウロはキリストの愛に応答していく形で、キリストのために一生懸命に真理に立ち続けることを教会の兄姉たちに励ましているのです。
2, 神が造られたものはすべて良いもの(4−5節)
神様は、ご自分がお造りになったものを、人々が感謝して受け取っていくことを喜んでくださるお方です。それは、「神が造られたものはすべて良いもの(4節)」だからです。これは、創世記1章の天地創造の物語で、神が被造物について「神はそれを良しと見られた」ことを思い起こさせる表現でもあります。
キリスト者の生き方は不自由に思われることもあるかもしれません。しかし、表面的には禁欲主義にも見られかねないパウロ自身が「感謝して受け取るとき、捨てるべきものは何もありません」と述べているのは、注目すべきことです。
旧約聖書(レビ記等)を見ると、神は「きよいもの」「きよくないもの」をお定めになっているではないか、という反論を予想してのことか、パウロは続けて「神のことばと祈りによって、聖なるものとされるからです」と根拠づけています。ここで言われている「祈り」とは、食前の祈りを指していると考えられます。食前の祈りによって、食物そのものが変わるというよりは、神から聖別された賜り物になるということでしょう。
私たちは、神様がこの世界に与えてくださった素晴らしいものを余すことなく、喜びをもって受け取っていきましょう。