「たゆまず良い働きを」

テサロニケ人への手紙 第二 3:6-18

礼拝メッセージ 2024.6.2 日曜礼拝 牧師:船橋 誠


1,「働きたくない者は食べるな」とは

「働かざる者」とは「働くことを欲しない人」

 この箇所の「働きたくない者は食べるな、と私たちは命じました」(10節)の文章から、「働かざる者食うべからず」という日本でよく知られた慣用句が生まれました。「働かざる者」とは、「働いていない者」ではなく、「(働けるのに)働きたくない者」であるということです。文語訳では「人もし働くことを欲せずば食すべからず」となっていますが、それがギリシア語本文の直訳です。ここで言われているのは「働くことを欲しない人」についてのことです。
 仕事をしたいと願っているのに、その口がない、あるいは何かの事情で働くことができないと困っていたり、苦しんでいる方は社会に多くおられると思います。聖書はそういうことについてはどう語っているかと言うと、たとえばマタイの福音書20章で、主イエスは「ぶどう園の労働者」(マタイ20:1〜16)のたとえを話されています。その話の中で「だれも雇ってくれない」と夕方になっても仕事がなく立ち尽くすばかりの人々に対して、「あなたがたもぶどう園に行きなさい」と主人は声をかけられます。このたとえの主人のように、神は仕事がなく困った状況にある人々に対して、御心を留めておられることがわかります。

なぜ働きたくない人を戒めているのか

 本日の聖書箇所が告げていることは、確かに労働の価値や義務を重んじていることばに違いはないのですが、それをパウロたちがこの手紙の最後になって念を押すように強調したのは、いったいどういうことでしょう。それは、これまで見たように、おもに二つの理由があったためと考えられます。一つは、最初のエルサレムの教会がそうであったように、信仰者たちが互いに自分の財産を捧げて共有し、共同で生活を行なっていたということです。もちろんすべての教会でそうしていたわけではないし、そのような特別な生活形態をパウロはどこでも命じていたという痕跡はありません。しかし、このテサロニケの教会ではそういうことを部分的であれ、おそらく行なっていたのでしょう。そのような中で教会や他の人たちの献金をあてにして、働くことをせず、生活している人がいたのかもしれません。
 もう一つは主イエスのご来臨が迫り、どうせすべてが終わってしまうのだからと、地上の生活を軽んじ、怠惰に過ごしている人たちがいたということです。もし来臨を信じることを根拠に自堕落な生活を送っている人がいたのなら、パウロがここであえて「命じる」(6、12節)という強い表現を繰り返したこともうなずけます。真理に基づく信仰が怠惰な生活に導くという考えほど、ひどい誤解はないからです。


2, 「兄弟たち」として生きていく

私たちは「兄弟たち」である

 ここでパウロたちが記している内容全体は、一言で言えば、私たちは「兄弟たち」として生きていきましょう、ということになります。6節と13節で「兄弟たち」と呼びかけていますが、これは英語の欽定訳聖書や米国標準訳聖書などでは、「ブレザレン」(brethren)になっています。私たちの教派がメノナイトブレザレンであることを思いました。しかし、それは肉親としての血縁的な繋がりとは異なっています。時々それを混同することで誤解や混乱が起こってしまいます。パウロがここで「兄弟たち」として呼びかける人々への戒めは、私たちが互いに「兄弟たち」としてどうふさわしく歩むべきかを教えています。

 互いに自分のことに責任を持つように

 まず、ここで「兄弟たち」として私たちは互いに自分のことに責任をもって歩むように促していることがわかります。先に見たとおり、「怠惰な歩み」をして、働かない人たちに対して訓戒されていますが、それはつまり、「自分で得たパンを食べること」(12節)であり、「だれにも負担をかけないように」(8節)するということです。しっかりと自分の務めを果たすことを心がけることが、「兄弟たち」として愛をもって歩むことの第一歩です。もちろん、できないことをせよ、ということではありません。頼る必要があれば、頼っても良いのですが、自分でできる範囲のことであればそれを行うように努めることです。「神の家族」だから、「兄弟姉妹」だから、遠慮せずに何をしても良い、何を言っても良いのだというのは誤解です。「愛は礼儀に反することはしない」(Ⅰコリント13:5)のです。「人は、それぞれ自分自身の重荷を負うこと」(ガラテヤ6:5)が必要なのです。

他の人の見本となれるように

 次に、パウロはここで「見習う」ということを繰り返し書いています(7、9節)。特に「身をもって模範を示す」(9節)というのは、非常に重たいことばです。これはもちろん、パウロたち宣教師や牧師に当たる人からのことです。ですが、テサロニケの教会では、パウロたちだけではなく、彼らも「信者の模範に」なっていたという事実があります(Ⅰテサロニケ1:7)。これは牧師である私にとって皆さまに対して申し訳ないことなのですが、「この私を見習いなさい」と、パウロのようにはなかなか言えません。しかし、次のことは言えそうです。他の人が見習うかどうかは別としても、確かに私は周りから「見られている」ということです。しかし、これは牧師である私だけのことではなく、皆さまがそうであると言っても間違いではないでしょう。あまり神経質になってもいけませんが、自分の振る舞い、ことば、態度、そうしたことは皆に見られています。そのことが本人に自覚されずとも、ある場合には他の人たちの励ましになり、あるい場合には信仰の躓きになったりするのです。「兄弟たち」として歩むということは、このように自分ひとりのことだけで終わらせられないということです。このことを思えば、謙って歩まざるを得ないことがわかります。

諭すことのできる関係となれるように

 これまで見たことを踏まえたうえで、互いに訓戒したり、諭すことはそれでも必要であるということです。ここでは、みことばに従わない人たちに対して、「避ける」(6節)、「注意を払う」、「交際しない」(14節)、「諭す」(15節)といったことが勧められています。私の小さな経験からでも言えることは、教会内で他の人に訓戒することは容易なことではなく、それをする場合には気をつけなくてはならないということです。ローマ人への手紙でパウロはこう書いています。「あなたがた自身、善意にあふれ、あらゆる知識に満たされ、互いに訓戒し合うことができると、この私も確信しています」(ローマ15:14)。互いに訓戒し合うというときに、「善意にあふれ、知識に満たされて」とパウロは書きました。それは訓戒することが簡単なことではないということを覚えてのことでしょう。何よりも、訓戒したり、諭したりする前に、その忠告が正しく受け入れてもらえる関係性が築かれていることが必要です。そうでなければ、反感を買うことになったり、争いに発展することがあります。注意し合える関係性を築くこと、それが「兄弟たち」として生きることです。