テサロニケ人への手紙 第二 3:1-5
礼拝メッセージ 2024.5.19 日曜礼拝 牧師:船橋 誠
1,祈りとは
平日のある集会で、祈りについて学ぶ時を持っています。その中で私は「祈りは神との交わりであり、霊の呼吸である」と語り、一つの例をお話ししました。それはある教会の求道者クラスで、ひとりのご婦人が「神さま」と自分の口から初めて言えたとき、ことばにできないほどの感動があり、自然と涙が溢れ出たということでした。これは、長く信仰生活を送っていると忘れていることですが、祈ることは習慣的に当たり前のことのようにしているかもしれないですが、しかし実は当たり前にできることではないということなのです。
私もかつて「神なく、望みなく」生きていました。しかし教会に来て、祈りを教えてもらったとき、それは最初、本当に不思議な感覚を味わいました。なんだかぎこちなく、ことばもすらすらと出てきません。しかし、それはちょうど赤ちゃんが母の胎内から出て、オギャーと肺で呼吸が始まる瞬間のようなものなのでしょう。神の世界の中で神の子どもとして生きることの始まりであり、霊の空気を吸って吐くという、神の御前に生きることの始まりです。このようにみことばを霊の糧として受けることと、祈りをもって神との交わりができることは、神の子どもとされたキリスト者の大いなる恵み、特権の一つであり、神からの素晴らしい贈り物です。
2,私たちのために祈ってください
祈ってくださいと頼むパウロ
さて、この聖書箇所では、信徒の方々が牧師や教師などに向かって祈ってくださいと言っているのではなく、逆に牧師のほうから教会の皆さんに祈ってほしいというお願いをしています。もちろん、パウロたちもいつもテサロニケの教会の人々のために祈っていました。1章11節「こうしたことのため、私たちはいつも、あなたがたのために祈っています」と記されていますし、第一の手紙1章2節に「私たちは、あなたがたのことを覚えて祈るとき、あなたがたすべてについて、いつも神に感謝しています」と書いています。しかし、ここではパウロたちのほうが「祈ってほしい」と頼んでいます。つまり、双方で祈り合うということが起こっていたということです。これを「祈りの交換」、「祈りの共闘」と書いている人がいました。
かなり前のことですが、マザー・テレサを尊敬するある人がコルカタに行き、そこに長く滞在してその働きを実際に見て学んだそうです。そこでその人はマザー・テレサから何か教えを受けようとして、あるいは祈ってもらおうとして直接話しかけたそうです。マザー・テレサはその人にこう言ったそうです。「どうかこの私のために祈ってください」と。私はこの話を読んだとき、これらのパウロのことばを思い出しました。パウロのような偉大な宣教者なら、あるいはマザー・テレサのような神の人なら、他の人々のために祈っても、誰かに祈ってもらう必要なんてないと思うかもしれません。けれどもそれは違うのです。
パウロの手紙を見ると、彼は幾度もその手紙の中で「祈ってください」と、祈りの要請をしています。「私のために、私とともに力を尽くして、神に祈ってください。…また、神のみこころにより、喜びをもってあなたがたのところに行き、あなたがたとともに、憩いを得ることができるように、祈ってください」(ローマ15:30、32)、「また、私のためにも、…福音の奥義を大胆に知らせることができるように、祈ってください。…宣べ伝える際、語るべきことを大胆に語れるように、祈ってください」(エペソ6:19〜20、他コロサイ4:3〜4、Ⅰテサロニケ5:25)。
宣教のための祈り
今日の箇所の1節と2節を見ると、パウロは何を祈ってほしいのかを記しています。二つのことが書いています。一つ目は「主のことばが、…速やかに広まり、尊ばれるように」ということでした。二つ目はパウロたちが「ひねくれた悪人どもから救い出されるように」ということです。この二つの祈りの内容は、どちらも福音宣教の前進のためであったということです。まず、そのことを心に留めたいと思います。
私たちは、主の御国の宣教が広がっていくことを祈っているでしょうか。日々の歩みの中で、いろいろ具体的な祈りや願い事を神に語っているでしょう。しかし、みことばが広まるように、主の働き人が守られて、しっかりと奉仕できるようにも、祈る必要があることを忘れてはなりません。世界的な宣教学者たちは、実践的な目標として人口二千五百人に対して少なくとも一つの教会が必要であるとしています。それでいくと計算上、日本には約五万の教会が必要だそうです。ちなみに、現在、日本の教会数はカトリックとプロテスタント、正教会も合わせて、約九千しかありません。しかも減少傾向にあります。宣教学的には「未伝地」とさえ云われるこの日本のために引き続き祈りましょう。また、世界のあらゆる国々に福音が宣べ伝えられるように、牧師や宣教師など主の働き人たちのためにぜひお祈りください。
この3章1節には「主のことばが、…速やかに広まり」という表現がありますが、ギリシア語本文では「主のことばが走る」と書いています。詩篇147篇15節に「主は地に仰せのことばを送り、そのみことばは速やかに走る」とありますがその表現に似ています。みことばが走り、人々の間を駆け抜けて行くというイメージです。パウロは第一の手紙1章8節で「主のことばが…響き渡る」と表現して、響き渡るラッパの音のように書いていますが、ここでは聖火ランナーのようにスピードをもって走って行く姿で描いています。私たちも祈らなくてはなりません。みことばが私たちの間で自由に動き、働き、走って行くように願いましょう。人々の間で、みことばが働いて、尊ばれるように。
3,主は真実な方です
続く3節以降のことばを見ると、ここからパウロたちの確信の表明と祈りとになっていきます。目を引く大事な表現は、3節の「主は真実な方です」という文です。パウロはしばしば「神は真実です」(ギリシア語;ピストス・ホ・セオス)を記しています(Ⅰコリント1:9、10:13、Ⅱコリント1:18)が、ここでは「神」ではなく、「主」(キュリオス)ということばを使っています。この「主」とは、イエス・キリストのことです。
3節から5節を見ると、3節では「主は真実な方」、4節では「主にあって確信している」、5節では「主があなたがたの心を導いて…」と、「主」が三回繰り返されています。これは「主イエスを見てください」ということでしょう。いや、「この方にのみ、あなたの心を集中して向け続けてください」というメッセージです。そこで3節と4節には約束のことばとして未来形で表現されている動詞が三つあります。それが「(あなたがたを)強くするであろう」と「(あなたがたを)守ってくださるであろう」と、「(あなたがたは)実行するであろう」です。約束された主は真実な方なので、「必ずあなたを強くし、守り、そして主の働きを実践させてくれます」とパウロはそう断言しています。私たちが祈りをするのは、ほかでもなく、主が真実であるという根拠に基づいているのです。