テサロニケ人への手紙 第二 2:13-17
礼拝メッセージ 2024.5.12 日曜礼拝 牧師:船橋 誠
1,堅く立ちなさい、しっかりと守りなさい!(15節)
「ですから兄弟たち。堅く立って、語ったことばであれ手紙であれ、私たちから学んだ教えをしっかりと守りなさい」(15節)。ここには、二つの命令の呼びかけがあります。それは「堅く立ちなさい」と、「しっかりと守りなさい」です。これは表現を替えて言うなら、「揺り動かされるな」、「倒れるな」ということでしょう。英語のある訳ではここを「スタンド・ファーム、ホールド・オン・タイト」などと訳していますから、「しっかり踏ん張って、しっかりつかまっていてください」というふうにも読めます。倒れないように気をつけるように、「しっかりと立ってください」、「しっかりとつかまってください」といえば、これは強風などで車体が大きく揺れたりする場合、乗客に注意を促す車内アナウンスのようです。
この「堅く立つ」ということばは新約聖書で計10回出て来ますが、その半分はパウロの手紙です。またパウロはこの語をほとんど命令形で使用しています。コリント第一16:13「目を覚ましていなさい。堅く信仰に立ちなさい。」、ガラテヤ5:1「ですから、あなたがたは堅く立って、再び奴隷のくびきを負わされないようにしなさい。」、ピリピ4:1「私の愛し慕う兄弟たち、私の喜び、冠よ。このように主にあって堅く立ってください。」などです。初代教会の時代においても、信仰者たちは気をつけていなければならなかったのです。彼らは数々の吹き荒れてくる風の中にあって、主のみことばに堅く立つことが必要でした。
J・ストット師は注解書に新約聖書で信仰者たちの安定を脅かす強い風としてたとえられているものは、三つあると書いています。第一の風は、反対や迫害です。第二は偽りの教えという風です。第三の風は誘惑です(Bible Speaks Today)。そう考えると、現代の私たちの心や信仰を揺るがしてくる「風」とは何でしょうか。しかしその風が何であれ、私たちは決して倒れてしまうことなく、それらの強力な嵐や風に立ち向かわねばなりません。それを可能とするものをパウロは、私たちが救いに選ばれ、栄光にあずかるよう召されていることを見続けよ、と言います。15節を真ん中に挟み込むかたちで、13節から14節で神の選びとご計画のことを、16節から17節でその力を求める祈りが記されています。
2, 神が私たちを選び、栄光を受けるように召した(13〜14節)
私たちが救いに選ばれたという変わらない過去
神のご計画における過去を振り返ること、そして未来を展望すること、この両面からパウロはテサロニケの教会の人たちに勧めをしています。13節と14節には三位一体の神の働きが暗示されています。13節「神が、御霊による聖別と…」、14節「そのために神は、…あなたがたを召し、私たちの主イエス・キリストの栄光に…」とあります。「神」は父なる神であり、そして「御霊」はもちろん聖霊であり、「キリスト」が出て来ます。そして13節の後半から14節の文章は主語が「神」です。「神が…あなたがたを…救いに選び」、「神が…あなたがたを召し」たということです。13節の「初穂」(ギリシア語:アパルケーン)と訳されたことばは写本ではもう一つの可能性があり、それによると脚注のとおり「初めから」(アプ・アルケース)となります。もし「初めから」と訳すことが正しいなら、エペソ人への手紙でパウロが書いているように「神は、世界の基が据えられる前から、この方にあって私たちを選び、御前に聖なる、傷のない者にしようとされた」(エペソ1:4)と言うことと重なります。天地創造の前から、神はまだ地上に生まれてもいない私たちのことを一人ひとりをすでに知っておられ、救いに定めてくださったという、これは驚くべき啓示です。神は最初から私たちを救うことを決めておられたということなのです。
私たちが栄光にあずかるという確かな未来
続く14節を見ると、テサロニケの人たちはパウロたちから福音のことばを聞き、その教えを受けて、そのとき救いに「召される」ということ、私たちがよく言う表現だと「信じて、救われました」という出来事が起こったということです。そしてその続きの「私たちの主イエス・キリストの栄光にあずからせてくださいました」ですが、これはもうそれを受け取った過去の出来事のように訳されていますが、ここはこうも訳せます。「そのために神は、あなたがたを私たちの福音を通して召してくださいました。それは私たちの主イエス・キリストの栄光の獲得のためです」。おそらくパウロはここで未来に起こることを記していると私は思います。キリストの来臨の時、私たちは主の栄光に照らされて光り輝くことになり、その日がやがて訪れるということでしょう。
こうして見ていくとわかるように、これは私たちキリスト者たちが永遠の昔から救いに選ばれ、現在、福音によって救いの召命を確信し、将来に起こるキリストの栄光の日を待ち望む者とされたことを教えています。ですから、神学者ジェームズ・デニーは「この二つの節は神学のミニチュアである。使徒の捧げる感謝は、神の永遠の選びから、来たるべき世におけるキリストの栄光の獲得に至るまで、創造の御業全体を網羅している」と言っています。
たとえどんな強風の中にあっても、私たちが堅く立ち、しっかりとつかまえておかなくてはならない教えとは、このように世界の基が据えられる前から選ばれたという変わらない絶対的な過去のこと、そしてキリストの栄光の中に包まれるという確実な未来です。振り返って「後ろ」を見て確認し、進み行く「前方」にある主の来臨の約束をしっかり握って今を生きるということです。
3, 神よ、慰め、強めてください(16〜17節)
13節から14節で見たように、神が私たちを救いに選び、栄光を受けるように召したということですが、神がすべてしてくださるのであれば、私たちは何もせず、ただリラックスして過ごせば良いのではないかというと、実はそうではないということです。むしろ私たちは「怠惰な歩み」をせず、「あらゆる良いわざとことばに進んで」いかなくてはならないのです。だから、私たちは日々みことばを学び、心に留め続けていくのです。それとともに神に喜ばれる歩みができるように、その力が与えられるように祈り続ける必要があるのです。聖書の命令や勧めというのは、神も人間もともに働くという「神人協働」的に見えます。16節で父なる神とキリストが何を私たちにしてくださったかを示し、そのお方ご自身が「心を慰め、強めて、あらゆる良いわざとことばに進ませてくださいますように」となっています。ここは「神が私を慰め、強めてくださらないから、私は良いわざもことばもできない」と言い訳ができそうです。しかし脚注の別訳にあるようにこうも訳せます。「あらゆる良いわざとことばによって、あなたがたの心を慰め強めてくださいますように」。つまり、「私たちが良いわざとことばに励むことの中で、神は私たちの心を慰め、強めてくださるのだ」ということです。私たちは良いことを行うように神は常に力を与え続けてくださるのです(参照;エペソ2:10、ピリピ4:13)。