ヨハネの福音書 3:13-21
礼拝メッセージ 2024.5.5 日曜礼拝 牧師:南野 浩則
世を愛した神
人の子として描かれているイエスは、天に属する存在とされています。天に「上がる」ことにひっかけて、人の子は高く「上げられる」ことが述べられます。それは、イエスの十字架を指しているのでしょう。イエスを信じる者が永遠の命を持つことを願う神はこの世界を愛し、一人子である子を与えました。
【コラム】この世
ヨハネ福音書では、この世(この世界)という表現が数多く登場します。多くの場合、イエスを信じていない人々を指しているようです。それは、この世界が肉に生まれた人々による滅びゆく世界であり、霊に生まれた人々と対立します。しかし、神はその世を愛し、人々が救われるように望んだのです。
ありえない救い
イエスを信じないこの世界は神によって棄てられ滅びに至るのですが、神は自らに逆らうその世界を救おうとします。子であるイエスは、神であるのにこの滅びゆく肉となってこの世界に生き、最後には死んでしまいます。神が朽ちてゆく肉となることも、ましてや死ぬことも、当時の人々には受け入れがたいことでした。しかし、聖書はそのあり得ないことが起きたのだと宣言します。ありえないことを通して救いが実現したと語ります。
裁きの言葉
その一方で、イエスを信じない人々への裁きの言葉が述べられます。元来、裁きは評価することですが、ここではその評価に基づく報いを意味しています。しかしその裁きはイエスを信じないことを選んだ結果であり、自らの悪・罪が暴露されないためであると言われています。
救いと裁き
イエスを信じないことの結果として悪・罪の存在と、その悪や罪に由来する苦しみに人々は縛られているのです。未来を待たずとも、人々は裁かれています。それは、イエスを信じている人々が既に救われていることと比べることができます。霊によって生まれ変わった者、つまりイエスを信じた者は未来の裁き(審判)の時を待たずに救われています。それをヨハネ福音書では特に永遠の命という言葉で表現しているのです。
ここで気を付けなければならないことは、悪・罪を止めるから霊によって新たに生まれる、あるいは救われるということではないことです。まず、私がイエスを信頼し、その生き方に従うという決断が先であり本質的なのです。そこで初めて悪や罪の問題が本当の意味で意識されていくのです。順序はその逆ではありません。もちろん罪との格闘はあるでしょう。しかし、罪や悪を止めることは私たちが救われた目的ではないのです。霊によって生まれた者がともに歩み、この神の国(支配)がこの滅びる世界に拡大し浸透することに私たちが救われた目的があります。その結果として罪や悪の問題は解決を見るのです。聖書の語る救いとは、その神の意思に従い生きることです。聖書の語る報いとしての裁きとは、神の意思に従わない生き方です。両者を分けるのは、やはりここでもイエス自身です。霊から新たに生まれることがイエスへの信頼にあったように、救いの要はイエスなのです。このイエスの生き方に従う生き方を聖書は救いと呼んでいます。私たちも、イエスを信頼してこの救いに生きていきましょう。