「 全地よ、主を恐れよ」

詩篇 33:1ー22

礼拝メッセージ 2023.8.20 日曜礼拝 牧師:船橋 誠


1,主を賛美できない人たちへの勧め

 詩篇33篇は、冒頭から3節まで、「喜び歌え」とか、「感謝せよ」、「ほめ歌を歌え」など、全部で五つの命令文を使って畳み掛けるように表現されています。一言で要約すれば、「主を賛美せよ」ということになるでしょう。それも「ちょっとでもいいから賛美しなさい」ではなく、「竪琴」や「十弦の琴」という楽器さえも使って、声を合わせ、力の限り歌うように命じられています。でも、こんなにも繰り返し表現を変えつつ命じているのは、これを聞いていた最初の読者である人たちが、実は、主を賛美することについて困難を感じていたからなのかもしれません。確かに、すでに喜んでいる人たちに向かって、「喜びなさい」と繰り返して勧める必要は無いわけです。もうすでに喜んでいるのですから。
 ここで喜び歌うように命じられている人たちは、「正しい者たち」、「直ぐな人たち」(1節)と呼ばれ、彼らは「主を恐れる者」、「主の恵みを待ち望む者」(18節)であることが記されています。主を信頼し、正しく真っ直ぐに歩むことを願って歩んでいる人たち、すなわち「主を自らの神とする」人たち、「選ばれた民」(12節)です。ところが、主を喜べないほどの苦しみの状況があったのでしょうか。彼らは、この世にあって迫害や困難を感じる環境に置かれ、日々闘っていたのかもしれません。歌いたくても歌えるような気分にならない、苦し過ぎて主を喜べない、もしかすると、彼らはそんな思いだったのかもしれません。
 この詩篇の終わりの20節から22節には、「私たちは…」、「私たちの…」と急に1人称複数形に代わり、私たちは主を待ち望み、主に拠り頼むと宣言されていますが、これも最初の1節から3節と同様な見方をすれば、この詩篇の読者たちが、主を待ち望むことに困難を感じていたのかもしれないということです。「なぜ、このように苦しんでいる私たちが主を賛美できようか。なぜ主を信頼して待ち望めようか。」と、そういう信仰の葛藤を持つ人々の間で、この詩篇は語られたのではないかと思います。ですから、ある説教者は、この詩篇を「信仰の闘いの詩」であると呼んでいます。


2,主を賛美し、拠り頼むことのできる理由

なぜなら…

 そのような信仰を持つゆえの心の葛藤に答えるために、この詩篇は書かれたと私は想像します。それを表すかのように、この詩篇には、「なぜなら」あるいは「まことに」と訳されるヘブライ語の「キー」という語が、4節、9節、21節に計四回出て来ます。特に、21節にはそれらをまとめてこう言っています。「まことに、私たちの心は主を喜び、私たちは聖なる御名に拠り頼む」。これをヘブライ語文から直訳すると、「なぜなら、主にあって、私たちの心は喜びます。なぜなら、聖なる御名にあって、私たちは拠り頼みます」となります。「なぜなら」という理由説明の導入句において、「主にあって」つまり、「主の中にあるから」、「主のご支配の内にいるから」ということが、賛美の根拠とされています。
 次に、主への信頼の根拠は、「聖なる御名の中にあるから」となっています。「御名」とは神のご人格そのものを表すものです。神がどのようなお方であるのかを知れば、私たちは当然、主を信頼するはずであると言っています。このように私たちが主を賛美する理由、信仰する理由、それが中心部分である4節から19節で述べられているのです。

主のことば(3〜11節)

 私たちが主を賛美し、信頼する理由は、主のことばの力の大きさを知っているからです。4節と6節で「主のことば」という表現があり、さらに9節では「主が仰せられると…」とあります。主のことばが持つその力について、三つの点から語られています。一つ目は、主のことばは真実であるということです。4節と5節には、旧約聖書が大切にしている「正義」と「公正」の概念が出て来ます。人間社会に対して、主がお求めになるのがなぜこの二つであるのかと考えると、それは主ご自身のご性質に基づいていることだからです。主は「正義」であり、「公正」なお方です。4節にあるようにそれは「主のことば」と「主のみわざ」とが完全に一致しているという意味です。ところが、人間は、しばしば「ことば」と「わざ」(行い)とが一致せず、口では良いことを語っていても、行っていることが真反対ということがあります。言行不一致が「正義」と「公正」を妨げて、そこに不正が起こり、罪と虚偽をはびこらせてしまう結果を生んでいます。しかし、主のことばとそのみわざはいつも一致し、主は常に真実であられるということです。
 二つ目に主のことばは、天地を創造し、支配する力を持っているということです。6節と7節にそう書かれています。「主のことばによって、天は造られた。天の万象もすべて、御口の息吹によって」とある通りです。ヘブル人への手紙でもこう述べられています。「信仰によって、私たちは、この世界が神のことばで造られたことを悟り、その結果、見えるものが、目に見えるものからできたのではないことを悟ります。」(ヘブル11:3)。この詩篇の7節では「海の水をせき止め…、湧き出る水を倉に納められる」という表現がありますが、これは荒れ狂う大海が陸地を襲って混沌とした状態にならないように、主は海を制圧して、御力をもってその濁流を治められるということを示しています(参照;創世記1:9〜10、ヨブ38:11)。「湧き出る水」と訳されたヘブライ語「テホモート」とは「深い淵」のことです。主のことばは、すべてのものを造り、生み出す力を持っていることにとどまらず、私たちを不安にさせ躓かせるような人生の深淵、混沌(カオス)など、恐るべき闇の力さえも封じて支配されるということです。
 三つ目に、主のことばが示すものは「みこころの計画」(10〜11節)は必ず成るということです。人間の考えや企てには常に限界があり、また必ずしも正しく先を見通すことはできません。ここにあるように、主に逆らう者たち、それが国家であっても同じことです。しかし、主のご計画、そのみことばは定められたその時に必ず成就することになり、永遠に立ち続けるのです。

主の眼差し(12〜19節)

 12節から語られていることは、主は天から私たち一人ひとりをご覧になっているということです。それはただ眺めているのではありません。しっかりと御目を留めて見つめておられるという意味です。それは愛の眼差しであり、親が子を大切に見守っているのに似ています。ここでは、それを「天からの」、「御座が据えられた所から」のものと表現しています。これはもちろん、空の上、宇宙から見ておられるという意味ではありません。地上にいる私たち人間からは、見えない場所からということなのです(参照;マタイ6:6)。私たちは主ご自身をこの目で見ることは出来ず、また自分が見られていることを感覚的に知ることも確認することもできません。これは信仰によってのみわかることです。いつでも、どこでも、主の目から外れる場所も時間もありません。だからこそ、私たちは主に拠り頼むことができるのです。このお方に心からの賛美を捧げましょう。