「飼葉桶のかたわらで」

ルカの福音書 2:1ー7

礼拝メッセージ 2017.12.24 日曜礼拝 牧師:船橋 誠


1,神の救いを実現する王となるために、イエスはお生まれになりました(1〜5節)

ローマの平和を実現する王

 冒頭の1節「全世界の住民登録をせよという勅令が皇帝アウグストから出た」を見ると、イエスがどのような時代に生まれたのかがわかります。「皇帝アウグスト」とは、初代ローマ皇帝のガイウス・オクタヴィアヌス(前63〜後14年)のことで、軍人としても、政治家としても、たいへん優れた手腕をもってローマ帝国を治めた王でした。Pax Romana ローマの平和と呼ばれた、帝国の絶大な繁栄と平和の基礎を築いた皇帝で、「アウグスト」とは、元老院から与えられた尊称で、ラテン語で「尊厳者」という意味です。
 「住民登録」というのは、兵役や税金を課すために、帝国内のすべての人々を掌握し管理するために行われました。イタリア、ローマから遠く離れたイスラエルの地にまで帝国の支配は及んでいて、「人々はみな、登録のために、それぞれ自分の町に向かって」行かなくてはならなかったのです。このように広範囲な地域におよぶ絶対的支配と権威という巨大なパワーを、皇帝アウグストは持っていました。当然のことですが、イスラエルは属州として、その支配下に置かれていたわけです。

神の平和を実現する王

 しかし、聖書は続いて語ります。天から遣わされた真の王となるべき、ミラクル・ベービーが生まれようとしていたことをです。ローマの平和ではなく、この世の権力や支配によらない、神の平和をもたらす王としてお生まれになる方のことです。
 イエスが神の平和を実現する王として来られるために、神のみことばの約束、預言のとおりに生まれなくてはなりませんでした。第一に、ダビデの子孫として生まれなくてはならなかったのです。この福音書では3章23~38節で系図が述べられていますが、マタイの福音書1章にもあります。それは預言されていた王、油注がれた者、メシアであるキリストは、「ダビデの子孫」からと決まっていました(参照;Ⅱサムエル7:12−13)。このヨセフとマリヤから、初子として生まれる必要があったのです。
 第二に、ダビデの子孫であることから、「ダビデの町」、すなわちダビデの故郷、ベツレヘムで生まれることが必要でした(参照;ミカ5:2)。ここで、ヨセフとマリヤというこの若い夫婦について想像してみてください。二人は結婚する前に、聖霊による宿りによって、乙女マリヤは懐妊し、身重となりました。結婚する前にお腹が大きくなるという、これはこれでふたりにとってとても不都合なことですが、さらにたいへんな事態となりました。皇帝の勅令で、ナザレからベツレヘムへ行かなくてはならなくなったのです。「彼は、ダビデの家系であり血筋でもあったので、身重になっているいいなずけの妻マリヤもいっしょに登録するためであった」(4~5節)と述べられているとおりです。マリヤはもうお産の日が近づき、お腹が大きくなって、旅ができる状態ではなかったでしょう。彼女は当然、ナザレの家で産みたかったでしょう。しかし、神の平和を実現する王として来られるために、イエスは、ダビデの町、ベツレヘムで生まれなくてはならなかったのです。
 そしてさらに言えることは、出産間近の夫婦をベツレヘムまで移動させるためには、皇帝アウグストの「勅令」が必要でした。これは、カルヴァン等の多くの注解書にも書かれていることですが、「ローマは、神の働きのために用いられる無意識のエージェントであった」(D,L.ボック著 「ルカの福音書」ベーカー)のです。神はご計画を行うために、異教徒であれ、だれであれ、御心のままにお使いになることができるのです。それを示唆する言葉が「〜が起こった」(1,2,6節のギリシア語でエゲネト)という表現です(英語訳では、It came to passで、多くの場合、翻訳に表れません)。それは神が起こされたということです。確かに、皇帝アウグストは大きな権力を行使することができましたが、それを遥かに凌駕する天からのパワーを持って、神はこの世界に平和もたらす方として、イエスを遣わされたのです。14節「いと高き所に、栄光が、神にあるように。地の上に、平和が、御心にかなう人々にあるように」の賛美のとおりです。


2,神の救いを実現する贖いの死を遂げるために、イエスはお生まれになりました(6〜7節)

最も低いところである飼葉桶に寝かされました

 次に、イエスの降誕のありさまは、この方が神の救いを実現するために来られたことを明らかにしています。神の力は、人々を動かし、ローマ帝国さえ動かすことのできるものですが、地上の国が競うような軍事力や政治力、経済力で、人々を縛り、強制していくようなものではないことを、この出来事は示します。地上で最も低いところに来られることによって、すべての人々を包み込むことのできる愛の力を示されました。最も低いところとは、もちろん物理的高低のことではなく、人間社会におけることです。獣や家畜が食べる餌桶である、飼葉桶の上に寝かされることにより、それを表してくださったのです。王の子孫として生まれた方が、地上で最も卑しい場所で生まれ、寝かされたのです。「飼葉桶」という言葉が、3回出て来ます(7、12、16節)。そしてその「飼葉桶」に寝かされているみどりご、ということが、救い主キリストであることの「しるし」であると、御使いが羊飼いたちに明らかにしました。

贖いの死を遂げるために

 また、「布にくるまれ」「寝ておられる」ことも大切な「しるし」として語られています。もちろん、この布はある種の産着でした。しかし、後の受難の出来事を見る時、死後、十字架から降ろされたイエスも布で包まれたこと(23:53)を想起させます。また、「寝かせる」はギリシア語でアナクリノ―で、これは横になって食卓に着く場合にも使われる言葉で、イエスが過越しの食卓に着かれたことをイメージできます。イエスは、そのお生まれになった時から、世界を贖うために死に行くことが暗示されていたのではないでしょうか。神の救いを成就するために、私たち人間をその罪より贖い出すために、イエスはお生まれくださったのです。ある人が言いました。イエスは、この世界でたったひとり、死ぬために生まれたお方であると。だから、11節で「あなたがたのために」と御使いが宣言しましたが、これは羊飼いたちだけではなく、私たちのことも指しています。私たちのために、イエスはお生まれになりました。P.ゲルハルトの讃美歌の如く、私たちも主の飼葉桶のかたわらに立って、ささげましょう。