詩篇 133:1-3
礼拝メッセージ 2015.8.9 日曜礼拝 牧師:南野 浩則
この詩編をドイツの神学者ボンヘッファーはその著書「共に生きる生活」の冒頭に引用しています。キリスト者が他のキリスト者と交流を持つことは「決して自明なことではない」と言っています。ですが、キリスト者が他の人々との交流を許されているとするならば、それは終末の先取りとして、つまり恵みとして与えられるのみであると、ボンへファーは語ります。
麗しい交流の譬え
「兄弟たち」を同じ主を信じる人々として理解しておきたいと思います。もちろん、共に住むとは、互いに関わり合いながら生活をしていくことを意味しています。そのような生活は麗しいのです。
その麗しさが二つの譬えで表現されています。一つは、油です。アロンは祭司とその子孫は代々祭司職を務めました。頭に油を注ぐとは祭司への任命であり、神の祝福です。またその油は、頭に止まらずに、その着物まで広がっていきます。祭司は儀式を通してイスラエルの民の感謝をささげ、彼らの罪の赦しを主に求めます。その祭司がなすべき業は、祭司や神殿だけでなく、イスラエル全体にも祝福として及んでいくのです。人々は互に暮らす場所は違えども、生活状況は違えども、同じ主の祝福を経験することができるのです。
次の比喩は、ヘルモン山の露です。その露がシオンを潤します。北の方角にあるヘルモン山は雪を頂くことがあり、山の湿気は南側に下りてきて、イスラエルの乾燥した地域を潤していました。ヘルモン山の露がシオンに降るとは、そのような水分を含んだ空気の動きを表現しているようです。
油も露も上から与えられるものとして描かれ、主の与える祝福と命を表現しています。神の与える祝福と命は、上から来て広がり、この広がりの下に人々はともに生きていくイメージで描かれています。考え方、生活の仕方、物事の感じ方、各々が違いますが、上からの祝福と命は違った人々を結びつけます。
ともに生きる
共に生きることは、旧約聖書だけの主題ではなく、新約聖書においても大切な事柄として扱われています。本日の「礼拝への招き」の言葉は、イエス自身がどのように人々の集まりを考えていたのかを示している箇所の一つです。人の繋がりを血縁だけでなく、神の意志にその基礎を置こうとしています。神が人を結び付けてくれるのであり、そこに神は私たちを招きます。イエスが語る神の意志は旧約聖書に繰り返し書かれています。神に従い、人が互いに大切にされていくことであり、律法の目的はまさにそこにありました。ある面、旧約聖書の時代も新約聖書の時代も、人々がともに助け合わないと生きること自体が難しい時代でもあったと言えます。少なくとも、現代の日本よりもそうでした。
私たちが生きる時代は、個人という考え方が尊重されます。個人を尊重し守るとことがなければ、逆に生きることが難しい時代だからです。ある人が蔑にされてもその個人を助ける義務を負う人々はいない、放っておけばそんな時代だからです。従って、個人の考えや生き方は、意識して尊重されなくてはならないのです。同時に、そのような時代だからこそ、集まることの大切さとか、神の意志に基づいて共に生きることの大切さをもっと噛みしめなくてはなりません。個人は大切にされなくてはならないし、孤独も必要です。ですが、人は孤立しては生きていけません。人間関係が面倒な時はありますが、それはまた別の話です。人として生きていくために、そこに神の恵みが現われるために、神は人がともに生きることを望んでおられます。
わたしは神学校2年生のときにボンヘッファーと出会いました。この神学者は、弟子、共同体、平和というような課題を扱い続けましたが、その時に気づいたのは、このような課題はメノナイトがその草創期から大切にしてきたことばかりであることです。ある面、集まることの大切さ、共に生きることの大切さを意識して、それを大切にしてきた歴史が私たちの教会にはあります。それは、大切な財産です。大切にしたいと思います。