申命記 6:4-9
礼拝メッセージ 2018.7.8 日曜礼拝 牧師:南野 浩則
新約という時代
新約聖書を記した初代教会には、神が再び行動を起こしてイエスがすぐに到来するという終末論的な考え方があったことが分かります。そのような状況では次の時代に何かを遺すという発想は薄れてしまいます。もちろん、初代教会もイエスの到来が思った以上に遅いことを悟る中で、教会を整備し、次の時代への準備を始めるように勧告するようになります。やがて来る終わりの時代(未来への期待)にふさわしく、すでに到来した終わりの時代(現在という土台)を生きるようにという、新約独自のメッセージが意味を持つようになりました。
旧約における次世代への期待
旧約聖書を見ていくと、より明確な形で次の時代へ神の意志を伝えていこうとしています。第1に、古代イスラエルの民が経験した神からの救いの出来事、あるは神からの裁きの出来事をその意味とともに後世に言葉で伝えています。第2に祭りがあります。これも過去の救済の経験を再現することで想起し、感謝し、次の時代へとその救済の物語を伝えていきます。第3に、律法を伝えていきました。古代イスラエルは神ヤハウェの意志に従い、その恵みを経験する中で生きていくことができました。その生き方の具体的な方向性が律法として与えられたのです。神と人間との関係は信頼でしか成立しない、これが聖書のメッセージです。律法は、人間を先に信頼した神への信頼をどのようにして表現すれば良いのか、それを具体的に古代に生きたイスラエルの人々に示しました。律法はイスラエルの人々に対して彼らが罪人であることを分からせるために与えられたのではありません。むしろ、神を愛すること、人を愛するためであり、人々が平和に暮らしていくためです。
それはイスラエルの人々にとっては生き方の問題であり、何を自分たちの生き方の核にしているのか、本質にしているのか、その告白でもあります。そこには次の世界にその生き方を遺しておきたいという強い意志が存在します。新約聖書のへブル人への手紙では、旧約の信仰者たちは自分たちが直接には得られないが、しかし素晴らしい救いを期待していたとあります。それは彼らの生き方が、彼らの次の世界と繋がっていることが意識されていたからです。
『後世への最大の遺物』と『デンマルクの国』
明治期から大正期に活躍したキリスト者、内村鑑三は次世代を非常に意識していました。内村はその著『後世への最大の遺物』の中で、人間が次の世界に残せそうなことを挙げます。お金、事業(ビジネス)、思想について評価を与えています。しかし、誰もがそのようなことを遺すことなどできません。誰にでも残せるのは“高尚かつ真面目な人生”と内村は言います。内村は「信じ方」について語ってはいません。「生き方」です。“真面目”とは神が私たちに期待した人生を生きることだ、と内村はキリスト者らしく語ります。自分の生き方を次世代に示して遺すという発想は、申命記に共通します。「生き方」を遺す、その発想です。
同時に、遺産は今からここから築かれていきます。同じ内村鑑三の著作『デンマルク国の話』で、デンマークという国が灌漑と植樹によって救われた話が紹介されています。植樹は次世代に意味があります。木を植えた人々がその利益を得ることはりません。自分たちが恵みを直接に経験できないとしても、その恵みを継ぎの人々が経験できるように私たちは神の恵みの経験を遺すように期待されています。石橋教会の新会堂は木造ですが、その材料は前の世代の人々が植えた木であることは工事関係者の言葉でしょう。
「遺す」という使命
一人の人間として、一つの教会として、その「生き方」を遺すこと、それは神が私たちに与えた使命であり課題です。教会の宣教は同時代に住む人々に横に拡がります。同時に、次世代へと縦に拡がります。どのような「生き方」なのか?それは私たちの日常に問われるべきことで、その日常の中で自分たちで答えを見つけねばなりません。各々が残すことのできる「生き方」は違うからです。遺すべきものがある、それは神からの変わらない問いかけです。