ヤコブの手紙 1:9-11
礼拝メッセージ 2022.4.3 日曜礼拝 牧師:南野 浩則
「低さ」と「高さ」
低くされている者たちについて述べられています。自分の態度を低くして謙虚に生きているという意味で使われているわけではなく、社会的な身分を語っています。つまり、奴隷や一般庶民ということになるでしょう。現代の民主的な社会とは違って、古代の身分制度についてよく理解しておかねばならない記述です。伝統的に、「富んでいる者」との比較の中で「低くされている者」を「貧しい者」と理解して翻訳している聖書は少なくありません。もちろん、古代において身分が低くても経済的に豊かな人々は存在しました。身分が低いからすぐに貧困であるとは言えないのですが、大多数の「身分の低い者」は貧困者であったことは事実です。したがって、この「身分の低い者」たちを貧困者の意味でヤコブ書が使っているのは、あながち間違いではありません。そのような貧しい者は「高く」されていると言われています。一方、社会の中で地位があり、「高い」とされているような「富んだ者たち」は「低い」とされています。それを認めるべきだと言っています。ここでの「高い」「低い」は、神から見た評価というよりも、富んだ者たちはその社会的地位を維持することはできないことと関連付けられています。それを「低さ」として表現しています。
低くされる富者
聖書は富んだものに対して厳しい態度を示します。とくにヤコブ書はその傾向が強いようです。富んだ者たちが隆盛を誇って「高く」されているのは今だけです。その「高さ」はすぐに消え去ってしまうと言われています。富んでいる者自身からその影響力や自慢というものが奪われることを言っているようですが、同時に、富そのものが消えてしまうことも示唆されています。もし富者が自分の富に依頼して生きているとするならば、その富はすぐになくなり、自分の生き方そのものも見失ってしまう結果になると警告されているのです。11節の言葉(草は枯れて、花はしぼむ)はイザヤ書40:7-8を引用しているようです。しかし、それは皮肉です。イザヤ書では神の言葉はとこしえに存在していくと約束されていますが、同じ表現を用いて富んでいる者の命運が滅びにあることが述べられています。富んでいる者が「低さ」を誇りなさいと命じられている(10節)のは、いずれ奪われてしまう自らの富を「高く」誇っている者へのやはり皮肉です。
富者への厳しい理由
富んでいる者への厳しさは、神は貧困や社会的な抑圧を経験している者に共感し、その救済を目指しているからです。私たち現代人には、富んでいる者と貧困者とを分けるのは、本人たちの努力であるという考え方があります。そのような考えそのものについては議論できるでしょうが、聖書自体はそのような見方をしていません。むしろ、経済活動によって経済的な境遇の違いが生まれるにしても、それは是正されなければならないという考えを聖書は主張しています。その経済的な格差の是正は分配によってなされると聖書は語ります。旧約聖書の安息日、安息年、ヨベルの年はそのような分配を実施することを求めており、使徒の働き2章や4章にはエルサレム教会の生活(教会の人たちは財産を教会に持ち寄って、必要に応じて分けた)が理想として描かれています。富んでいるとは、そのような分配の精神を無視して富を独占し、他の人々が生活するための必要を奪っていることになるのです。だから、富んでいる者への厳しい言葉が聖書には記されています。
神の価値観
お金が必要ではないと聖書は言っているのではありません。貧しいから清いとも言っていません。低くされている貧しい者が「高い」とされるのは、そのような人たちに対して神は救済の業を行い、神に従う教会は人々が互いに生活できるようなるためにその働きに努力するからです。苦しんでいる人々を放置できない神の価値観が、この「高い」という言葉に表現されているのです。
私たちは独占を称賛する資本主義の世の中に生きています。そこから抜け出すことはできず、無意識にその価値観に染まっています。その価値観から聖書も読んでいます。しかし、聖書自体は現在社会とは違った経済的な価値観を示していることを理解すべきです。それは分かち合い、分配することです。まず、このように聖書が主張していることを学んでおきたいと思います。また、そのような考え方がヨーロッパのキリスト教会を通じて、税金・社会保険・年金制度としてこの世界に形となっていることも指摘しておきたいと考えます。生活のために消費し蓄えることは大切ではありますが、分かち合う精神についても考えていただきたいのです。