「赦されることの喜び」

詩篇 32:1ー11

礼拝メッセージ 2023.8.13 日曜礼拝 牧師:船橋 誠


1,自分が罪人であることを知ることが知識の初め

 詩篇は、私たちの心を栄光に満ちた神に向かわせて、賛美と喜びを与えてくれます。しかし、それと同時に詩篇は、人間の弱さや儚さを教え、今日の詩篇にあるように、人間が持つ罪の現実、すなわち神への背き、罪、咎の霊的実態というものを暴き、明らかにされるのです。この詩篇を記した人がダビデだったなら、詩篇51篇と同様な状況が背景にあったと多くの人々が考えています。ダビデがウリヤの妻であったバテ・シェバに対して欲情を懐き、奪い取ったことについての諸事件のことがこの詩篇の背景であると言うのです。
 ダビデは王として地位が確立し、国がある程度かたちを成して来た時、彼は自分の持つ絶大な権力を使って、人妻バテ・シェバを召して、彼女と通じ、その妊娠が判明すると、夫との間にできた子どもであるように見せかけるため、戦場にいたウリヤを呼び寄せて、隠蔽を図ろうとします。しかし生真面目なウリヤは戦場で今も戦っている仲間がいるのに自分だけ家に戻ってゆっくりなどできないと断ります。ダビデは説得困難と見るや、今度はウリヤを激戦地で戦死させるように将軍に指示を出して、結局殺してしまいます。少なくとも、自分勝手な権力の乱用によって、自らの罪深い欲望とそれを隠すために、姦淫の罪、偽証の罪、殺人の罪などをダビデは自らの意志で犯してしまったのです。
 この詩篇は「幸いなことよ、その背きを赦され、罪をおおわれた人は」と始まりますが、この1節と2節は新約聖書で使徒パウロがローマ人への手紙で引用しています。「『幸いなことよ、不法を赦され、罪をおおわれた人たち。幸いなことよ、主が罪をお認めにならない人。』」(ローマ4:7〜8)。パウロはこの詩篇の告白のことばが、ダビデという特定の人物についてのことではなく、割礼の有無も、時代や地域も関係なしに、すべての人間に普遍的に当てはまること、「すべての人は罪の下にある」という真理を前提に引用したのです(参照;ローマ3:9)。
 箴言は「主を恐れることが知識の初め」(1:7)と記しますが、ヒッポのアウグスティヌスは「自分が罪人であることを知ることが知識の初めである」と言いました。その彼が最も愛読した詩篇がこの32篇であり、頻繁に読んだだけではなく、死ぬ前には病床の壁にこの詩篇のことばを刻ませたそうです。そうしていつも慰めと励ましを受けていました。人は神の御前に誰でも罪ある者であることを自覚せねばならず、その自覚に基づいて神に罪を告白して生きることの必要を説いたのがこの詩篇なのです。ですから、多くの人々によって、この詩篇は「福音的詩篇」と呼ばれてきました。


2,罪とはどのようなものなのか

 この詩篇は罪というものがどういうものであるのかを、三つのことばを使って表現しています。一つ目は、「背き」と訳された「ペシャ」です。「幸いなことよ、その背きを赦され…」(1節)の「背き」です。人は、神に背き、人間同士において互いに背いて、罪の正体をさらけ出しています。神に対するこの背反は、まさにひどい裏切りであり、恐ろしい反逆であり、神の権威に対する人間の愚かな挑戦行為なのです。罪は神に対する反逆であるのです。
 第二に、「罪」と訳された「ハッター」ということばです。「罪おおわれた人」の「罪」という語です。これはギリシア語の「ハマルティア」と意味がよく似ており、原義は「的はずれ」ということです。人間が幸せに毎日暮らしていたとしても、人から立派に見えたとしても、もし「神の御国」に入るという御心を知らなければ、それは的外れです。神が備えられた目的に適っているかどうか、それが重要なことです。神の御心に沿った掟や律法(ルール)から外れたものすべてが「ハッター」となるのです。
 第三に、「主が咎をお認めにならず」の「咎」と訳された語の「アーウォーン」です。これは歪んでいる、ねじれているという意味の動詞に基づくことばです。それは心の思いと、口から出ることばと、行動とが歪んでいるということです。人間が神の御前に堕落し、ねじ曲がってしまった歪んでいる存在者となってしまっていることが、この「咎」(アーウォーン)です。
 C.H.スポルジョンは、この「背き」、「罪」、「咎」のことを、「地獄の門にいる三つの頭を持った犬」にたとえています。確かに、これらは私たち信仰者に追い迫る厄介な獣です。3〜4節には、その罪による悪い影響が描かれます。「私の骨は疲れきり、私は一日中うめきました。昼も夜も、御手が私の上に重くのしかかり、骨の髄さえ、夏の日照りで乾ききった」と。罪は単に宗教心の有無や、心の拠り所の問題ではなく、実際の肉体にさえ悪影響をもたらし、疲労感や目に見えぬ重圧、ひどい心の飢え渇きを生じることが明らかにされています。


3,罪の告白による解放と喜び

 それでは、どうすれば罪を赦されて、幸いな者となれるのでしょうか。それには、二つのことを知ることが重要です。一つは、罪は自分の力で解消できるようなものではないことを悟ることです。罪を犯さないで歩もう、罪をきれいに自分で洗い流そうと思っても、それは人間の能力では不可能なことなのです。
 1節を見ると、「その背きを赦され、罪をおおわれた人は」と書いています。「赦される」、「おおわれる」、2節にあるように「認められない」(ヘブライ語直訳では「数えられない」つまり、カウントされない)というのは、すべて受動態で記されており、人間の側では何もできず、全く受動的な状態に置かれていることを教えています。神が私たちのことを赦してくださらなければ、取り扱いをしてくださらなければ、私たちの罪はどうすることもできません。新約時代に生きる私たちには、ですから、主イエスの十字架をいつも仰ぎ見る必要があるのです。御子が私たちの罪を贖ってくださったことに基づいてのみ、私たちは罪の赦しを受けることができるのです。十字架のほかに罪の赦しはなく、救いの道もありません。
 二つ目に、告白するということです。「私は自分の罪をあなたに知らせ、自分の咎を隠しませんでした。私は言いました。『私の背きを主に告白しよう』と。すると、あなたは私の罪のとがめを赦してくださいました。」(5節)。罪を神の御前に残らずさらけ出し、御前に自分の魂を裸にすることが罪の告白なのです。
 5節後半の「すると、あなたは私の罪のとがめを赦してくださいました。」には、罪の告白と神の赦しの間には、一瞬の差もないほどに即座のことであることが言われています。もし私たちが罪を告白するやいなや、神による罪の赦しは一瞬にして有効なものとなるのです。6節以降に記される罪おおわれた者の解放の確信と喜びは、それを豊かに表しています。