「誘惑を受ける」

マルコの福音書 1:12-13

礼拝メッセージ 2020.6.21 日曜礼拝 牧師:太田真実子


1.荒野での40日間

 今回の聖書箇所の舞台は「荒野」です。イエスは40日間、荒野で過ごされ、サタンの誘惑を受けられました。荒野といえばイエスに限らず、旧約聖書時代にエジプトから脱出した指導者モーセとイスラエルの民が40年間旅をしたのも荒野、また、サウル王から命を狙われたダビデが逃亡生活を送ったのも荒野でした。その他にも、聖書には荒野におけるエピソードがたくさん登場します。
 イスラエルの人々の荒野に対する基本的な認識は、飲み水や食べ物を手に入れるのが難しいところ、人が定住するには適していないところ、そして獣がいるところ、というものです。それゆえに、人が住んでいないために人が逃亡してくる場所であったり、主から試みを受ける場所であったりと、荒野とは人間にとってはとても寂しく、恐ろしさを感じさせる場所です。神様への信頼をかたく保つのにはあまりにも誘惑の多い場所であると言えます。イスラエルの人々にとって荒野は、人に希望ではなく絶望を与える荒れ果てた土地を意味していました。

 イエス様が四十日間荒野で過ごされたことについて、実はマタイの福音書とルカの福音書にはもっと詳しく書かれています。「イエスは四十日間、荒野で断食したのち、サタンとの直接的な会話があり、イエスがサタンの誘惑に打ち勝った。そして御使いたちがイエスに近づいてきて、彼に仕えた」。ざっくりとまとめると、このように書かれています。
 しかしマルコの福音書には、イエスがどのように荒野で過ごされて、どのような試みを受けられたのか、そしてその結果どうなったのか等、他の福音書と比べると全くと言っていいほど詳細が書かれていません。
 このマルコの福音書の記事から分かるのは、イエスが受洗してすぐに荒野でサタンの試みを受けられたという事実です。このところから、今回は、「これはイエスが父なる神と御霊に従順であったことを示す出来事でもある」ということに目を留めたいと思います。


2.御霊がイエスを追いやられて

 「サタンの誘惑を受けられた」イエスは、御父と聖霊とに非常に献身的で、従順であったと見ることができます。12節において、「御霊はイエスを荒野に追いやられた」。つまりイエスは御霊に誘導されるままに、ある意味で強制的に荒野に入られたと言えます。イエスはバプテスマのヨハネから洗礼を受けた直後に、ご自分のご計画の中で荒野へ向かわれたというよりは、御霊がイエスを荒野へ導かれたのであり、イエスはその御霊の導きに従われたのでした。試練のタイミングや内容はイエスが自ら選択なさったのではないという点においては、人が経験する試練と通ずるところがあります。


3.イエスの神への従順

 イエスの受洗も、荒野で試みも、どちらもイエスというお方には必ずしも通らなければならない道であるとは言えないように思います。むしろこれらは、不完全ながらも神様に従っていきたいと願う人間が通るべき道です。しかしイエスはそのような道を、ご自分を低くしてお通りになり、だれよりも神に従順な姿をお示しになりました。イエスが人となられたとは、人としての肉体をもたれたことや、人と同じように空腹や眠気、痛みを感じられたこと等に限りません。神に対するご自分の立場そのものも低くされて、神への信頼と従順さにおいて、人間の究極的な模範となってくださいました。
 イエスは御霊に導かれるままに荒野に入り、サタンの誘惑とたたかい、父なる神が愛されたこの世を、神に従順であることによってイエス様ご自身も深く愛してくださったのです。

 イエスが御霊に導かれるままに荒野で過ごされたこと、父なる神がイエスにそのような道をご用意なさったこと、これらを私たちは当然のこととして理解すべきことではないように思います。また、私たちと無関係なこととして理解すべきでもありません。福音を必要としている私たちが、イエスにそのような歩みをさせたのだと自覚すべきであることを思わされます。

 マルコの福音書には記述は非常に簡潔です。しかし私たちはその簡潔さの中に、イエスの荒野での時間を丁寧に読みたいものです。イエスにはたしかに神の特別な守りがありましたが、四十日間イエスが荒野で過ごされたという事実を、神の子イエスにとっては容易いことであったとして理解するのではなく、神の子であるにもかかわらず人の通る道を通られ、どこまでも神様に従順であったイエスの姿に教えられたいと願います。