「試練の意味①」

創世記 22:1ー19

礼拝メッセージ 2019.1.27 日曜礼拝 牧師:船橋 誠


1,イサク献供物語に記された謎

人身御供がなぜ命じられたのか―謎その1

 アブラハムが息子イサクを犠牲のいけにえとしてささげるこの物語は、アケダー(ヘブル語で縛るの意味、9節から)と呼ばれ、たいへん有名であり、とても謎の多い話として知られています。この話に含まれている謎はいくつもあり、どう理解したら良いのか、解釈すべきなのか、読者の多くを悩ませて来ました。
 まず第一に、この話の不思議さは、人身御供、すなわち人間をいけにえとして祭壇の上にささげるという行為を、神がアブラハムに命じたというところです。それは大きな衝撃です。ご存知のように、古代世界においては、人間を犠牲としてささげるという風習や習慣は、多くの地域に見られるものでした。しかし聖書の中を見ると、イスラエルを囲む周辺世界は、そうした宗教文化を持った人々が住んでいたのですが、神はそのような風習を偶像崇拝による悪しき罪の慣習として厳しく禁じており、彼らにならってイスラエルの民が同じ罪を行うことのないように警告を与えています(レビ18:21,20:1〜5、申命記12:31,18:10等)。それなのに、どうしてアブラハムはイサクを全焼のささげ物にするように試され、命じられたのでしょうか。

アブラハムとイサクの行動―謎その2

 二つ目の謎は、アブラハムがなぜ、このような厳しく無茶な命令に対して、異議申立てをすることなく淡々と従っていること、あるいは、息子イサク(当時、十代の若者)も、なぜ父に言われるがまま、黙々とそれに従っているのか、という疑問です。アブラハムは、神から告げられたモリヤの地へ行くために、若い者たちを供として連れて旅に行きますが、三日目に目的地が見えた時、若い者たちをその場に残し、息子イサクとふたりだけでその山に向かいます。7節と8節で交わされている二人の会話は、たいへん言葉少なく、意味深いやりとりです。「火と薪はありますが、全焼のささげ物にする羊は、どこにいるのですか。」とイサク、それに答えてアブラハムは「神ご自身が全焼のささげ物の羊を備えてくださるのだ」。二人がモリヤの地に着くと、アブラハムは祭壇の準備をし、薪を並べて、イサクを縛ります。そして薪の上に彼を載せたのです。イサクはされるがままに縛られたのでしょうか。抵抗したとも述べられていませんし、殴って失神させたとも書いていないのです。非常に不可解です。10節を見ると、何も躊躇せず、アブラハムは刃物を振り上げて、息子を屠ろうとしました。その瞬間、天から主の使いのことばがなければ、イサクの命はなかったでしょう。このように見ていくと、アブラハムとイサクという親子の二人の姿には、決して普通ではない何かがあるような気がします。

イサクのその後の消息―謎その3

 第三に、このモリヤの地の出来事の最後についてです。19節を見ると、アブラハムは若い者たちのところに戻ったことが書いていますが、イサクのことには触れられていません。主の使いによる介入で、イサクは実際には屠られなかったのです。代わりのいけにえも用意されて、イサクは無傷で家に帰ったはずです。ところが、アブラハムと一緒にベエル・シェバに戻ったということは書いていないのです。こうした書き方も謎めいています。もちろん、その後の24章でイサクのためのお嫁さん探しの話が続きますので、イサクがその後、物語から姿を消しているわけではありません。ですが、22章においては書かれていないのです。これらの謎を踏まえて、この22章を通して神が私たちに示していることを考えてみたいと思います。


2,イサク献供物語の謎から見出だせること①―試練の現実

 まず第一に、こうした謎から教えられることは、人間が誰しも遭遇する試練や人生の苦悩の現実です。22章1節では「これらの出来事の後、神がアブラハムを試練にあわせられた」と書かれています。試練というのは、ただ何か苦しいことがある、何か問題に直面しているというようなシンプルなことではなく、なぜ、どうして、こんなことが、この私の上に起こるのか、と頭の中でどう考えても理解ができないような、厳しく難しいことです。アブラハムの場合、約束の子孫を与えると言われて20年以上も待ち続け、そして子どもがやっと与えられたわけです。普通の昔話では世継ぎが生まれ、めでたしめでたしと、これでおしまいになるところでしょう。ところがその子孫は空の星のように増えると約束されていた、たったひとりの頼みの綱である子どもを、全焼のいけにえにせよとは、いったいどういうことなのか。神が何を考えておられるのか、神自ら約束されたことを破棄してしまうことになるようなことを言われることに混乱してしまいます。しかし、それが試練というものであり、その不可解さが私たちの心を打ちのめしてしまうのです。この1節の言葉は、直訳すると「神がアブラハムを試した」となります。人間が遭遇する試練には、人間の罪や堕落、不誠実や悪、また悪魔の攻撃といった要因もある一方で、神が許容されるという点で、あるいは神の支配を免れるものが何ものも存在しないという意味においても、神はこのアブラハムだけではなく、私たちをも試みられる時があるのです(参照;申命記8:2等)。


3,イサク献供物語の謎から見出だせること②―いけにえの子羊

 イサクのセリフ「全焼のささげ物にする羊は、どこにいるのですか。」(7節)は、この後、聖書全体で語られていく主題につながっていきます。人間が持つ最大で究極の課題は、罪の赦しと贖いです。そのために神は、ひとり子なる神、キリストをささげ物の羊にすると定められました。「ヨハネは自分の方にイエスが来られるのを見て言った。『見よ、世の罪を取り除く神の子羊。』」(ヨハネ1:29、他Ⅰペテロ1:18〜19参照)。アブラハムとイサクが出かけた「モリヤの地」は、歴代誌第二3章1節によればエルサレムの山です。彼らが言葉少なに、モリヤの地に向かって山を登り、歩いて行き、互いを信頼して完全に委ねている姿の中に、父なる神が御子キリストを十字架におささげになることが映し出されていたのです。モリヤの山は、カルバリ山でした。そういう意味では、最後の場面にイサクの姿がなかったことも、イサクは確かに神にささげられたのだという、信仰の現実を表しているという意味で理解することができることでしょう。この聖書箇所が語っている真理は、神を信じるという信仰の視点から、考えて行く必要があるのです。