「試練と誘惑」

ヤコブの手紙 1:12ー18

礼拝メッセージ 2022.4.10 日曜礼拝 牧師:船橋 誠


1,試練に耐える人は幸いです

 「試練と誘惑」というテーマは、現代の私たちにとって、非常に身近に感じられる事柄であると言えるかもしれません。社会においても個人においてもさまざまな不安や心配を抱えている一方で、激しい誘惑との闘いの中に置かれて、私たちは生きています。12節に、試練についてのことばがあり、少し前の2節から4節にも、それについての教えが書かれていました。「試練にあえば喜べ」、とヤコブは意表を突くような勧めを記していますが、もちろん試練自体は苦しく辛いことであり、ふつうに考えればそれを喜ぶことなどできないことです。しかし、2節から4節、そしてこの12節が語っていることを見れば、そこで忍耐を働かせることが必要であると教えています。忍耐をすることが重要なことなのです。極端を言えば、忍耐という徳目は、試練がなくては学び、修得することができないものです。
 なぜ忍耐深さを身につけることが必要かと言えば、一つ目に2節から4節で言われていることですが、それは私たちが成熟した完全な者へと成長していくためです。二つ目が12節にあるとおり、耐え抜いた人に、神は「いのちの冠」を与えることを約束されているからです。ドイツの新約学者シュナイダーは次のようなことを述べています。「人生の辛酸をつぶさになめ、重い試練の数々を切り抜けた者は手ぶらで送り出されることはない。…地上での貧しく苦難に満ちた生活に代わって、永遠に朽ちない栄光が訪れる」(NTD『公同書簡』)。


2,誘惑の原因はどこにあるのか

神が悪に誘惑することはない

 ところで、13節から「誘惑」という表現が出てきますが、ギリシア語のペイラスモスやペイラゾーという語は、「試練」とも「誘惑」とも訳すことができます。文脈に応じて訳し分けられているのです。この語の意味としては、「試みる」、「試す」が原意です。「試練と誘惑」のこの二つが同じ語であるとは興味深いことです。人が試練に出会い、忍耐をして神のことばに従うことができれば良いですが、そうでなく、疑いを持って神に従うことをやめるなら、その場合、罪を犯したくなるのです。それが誘惑ということでしょう。それゆえ、試練というものは誘惑でもあり、誘惑とは試練を発端とすることが多いのです。それで、誘惑に負けて罪を犯した人は、私が試みられることを許したのが神ならば、私を悪に誘惑したのは神であるということになるのではないか、と弁解したり、罪の責任を神になすりつけようとします。創世記3章の堕落の記事にあるように、エバは蛇の責任だと言い、さらにアダムはエバの責任だと言っただけでなく、エバを造られ、自分のそばに置かれた神が悪いと非難したのです。そうした愚かな言い訳をもって議論してくる口を封じてしまうために、ヤコブは神が人間を誘惑することはないときっぱりと語ります。「神は悪に誘惑されることのない方であり、ご自分でだれかを誘惑することもありません」(13節)。神は悪に誘惑されて負けてしまうこともないし、悪という存在そのものをひとかけらもその内に持ってはおられない聖なる方であるということです。それをJ・マッカーサーは「神は悪に気づいていますが、ゴミ捨て場を照らす太陽光線がゴミに触れられていないように、悪に触れられていない」と表現しています。

人の内にある欲望が原因

 それでは、一体何が私たちを惑わす原因となるのでしょうか。ヤコブはそれを私たちの内にある欲望、「自分の欲」であると告げています。「人が誘惑にあうのは、それぞれ自分の欲に引かれ、誘われるからです」(14節)。最初の「引かれる」という語は、内なる欲求によって強制されているかのように、引きずり出されるという意味を持っています。次の「誘う」というのは、餌で誘い出して捕獲されるということです。
 すべての人が誘惑にあいますし、誘惑に対する免疫を持っている人はだれもいないのです。人間の内にある罪深い欲望が、真実よりも偽りのほうが正しく見えさせ、道徳的純粋さよりも不道徳のほうが魅力的に見えるようにしてしまうのです。ある種類の餌やルアーがある魚を釣るために機能しても、別の種類の魚ではうまくいかないのと同じように、各人によって誘惑は異なります。ある人に強い誘惑となるものであっても、別の人にはそうなりません。人によって誘惑に弱い部分が異なるのです。私たちの共通点は特定の欲望にあるのではなく、私たち皆が異なった欲望を持っており、各々誘惑に負けてしまいやすい存在であり、その原因は自らの内にあり、その責任は自分にあることを知らなくてはならないのです。しかも、欲望は欲望で終わるのではないということ、欲望が罪を生み、罪が死を生むと言っています。人が子どもを産むことに喩えて、欲望が罪を、罪が死を生み出すことを語ります。ここで明らかにされていることは、罪というものが一つの現象ではなく、過去から繋がっているプロセスのようなものであるということです。
 罪は、欲望から始まる段階を経て、自分を欺きだまらせて、やがて熟することになります。しかし、その実と報酬は、魂の死であり、神から引き離されてしまう結果を生じます。そこに段階があるということは、どこかでストップせねばならないことを警告しているのです。トルストイの民話の題にあるように「火は粗末にすると、消せなくなる」ものです。


3,すべての良きものは神から来る

 神は、人間を誘惑する者でも、悪を許容される方でもありません。また、私たちが誘惑に弱いことを知り、負けてしまった罪の責任を厳しく問い、無理矢理に禁欲を命じるような意地悪で、狭量な方でもありません。17節で明言されていることは、神は光を造られた方であり、一点の悪の曇りも暗闇もない方であるということです。さらに、「すべての良い贈り物…完全な賜物」を私たちに惜しみなく与えてくださる父親のようなお方であるということです。

 私たちは神に求めて良いのです。しかし、何を求め、どんな動機なのか、ということは大事です。この書は言います。神に求めなさい、と(ヤコブ4:2〜3、ヨハネ15:7)。15節で、欲望から罪、罪から死が生まれると喩えたヤコブでしたが、18節では読者に向かって、「あなたがたこそは、御父が生んでくださったのだ」と喜びの宣言をします。それは「被造物の初穂」にするため、「みこころのままに真理のことばをもって」、神は私たちを新しく生まれさせてくださったという、新約聖書全体が語る、最も大切な霊的真理を示すのです。

 10〜11節はイザヤ書40章6〜7節を想起させる表現でしたが、18節ではイザヤ書40章8節「しかし、私たちの神のことばは永遠に立つ」を念頭に置いて語っているように見えます。言い換えれば、このように呼びかけていることになるでしょう。「試練や誘惑という刹那的現実に翻弄されて生きてはならない。真理のみことば、永遠のみことばによって、あなたがたは新しき被造物、神の初穂として生まれた存在であることを決して忘れるな」と。(参照;Ⅰペテロ1:23〜25)。