「裏切る人と裏切られる人」

マルコの福音書 14:43ー52

礼拝メッセージ 2015.5.24 日曜礼拝 牧師:船橋 誠


1,裏切ったユダの姿のうちに           (人間の罪)の恐ろしさを見ます

①ユダは十二弟子のひとりでした

 イスカリオテ・ユダを表す時に、福音書記者たちは「十二弟子のひとり」として表現しています。「十二弟子」とは、イエスのそばにいて仕えて、用いられた中心的な弟子たちのグループです。あえてその事実を記述しているのは、ユダという人物が、これまでイエスによって愛され、育てられ、信頼を受けて歩んで来たことを証しするためだったからでしょう。そんなに愛された弟子であったはずなのに、彼はイエスを裏切り、祭司長たちに売り、引き渡す者になってしまったのです。でも、ユダを悪の存在としてだけ見て、自分と切り離して捉えるなら、聖書のメッセージを読み違えることになってしまいます。神に背いたり、他人を裏切ってしまう人間の罪深さということを考えるならば、誰の心のうちにもユダの心の種子が隠されていることを認めなければならないでしょう。

②ユダは祭司長たちと謀議してイエスを逮捕させました

 14:10−11を見ると、ユダが祭司長たちのところへ行き、密談してイエスを引き渡す機会を狙っていたことが明らかにされています。44節で「イエスを裏切る者は、彼らと前もって次のような合図を決めておいた」と記していますので、このイエスの逮捕の場面に至るまで計画を練り、十分な打合せをして、実行したことがわかります。人は、罪を行うために、一生懸命に頭を使い、計画を考え、仲間と相談をして、動くことがあるのです。このような計画的な実行に彼を向かわせた動機は何だったのでしょうか。詳細を聖書は記していませんが、ひとつには金銭欲(マタイ26:14−15)があったようです。

③ユダは接吻をもってイエスを裏切りました

 当時の人たちは頬に接吻(キス)して挨拶をする習慣がありました。もちろん、それは親愛の情を示すことであり、「先生(ラビ)」という呼びかけと合わせて見れば、ユダのイエスへの近づき方は、深い敬愛を示す行動であるはずでした。ところが、それは裏切りの行為であり、捕らえに来た者たちへの合図として用いられたのでした。なんと悲しいイエスとの出会いであり、キスでしょうか。ほんとうに血の凍るような、恐ろしい行為ではないでしょうか。しかし、人は心にもない言葉や賛美をもって神をほめたたえたり、神を礼拝をしながら、誰かに憎悪の念を募らせていることもあり得るのです。


2,裏切られたイエスのお姿のうちに神のみこころに従う者の      (強さ)を見ることができます

①イエスは神(御父)のみこころを知っておられました

 イエスはゲツセマネの祈りにおいて、「わたしの願うことではなく、あなたのみこころのままを、なさってください」(14:36)と御父のみこころを受け入れておられました。神のご計画は「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちに捨てられ、殺され、三日の後によみがえらなければならない」(8:31)ということでした。この「必ず〜しなければならない」という表現は、「神の必然」と呼ばれています。この逮捕の場面でいたのは、イエスを除くと、逮捕する側の人々と、恐れて逃げて行く人々の2種類に分けられます。そのどちらの人たちも、この「神の必然」というご計画を知らず、受け入れていない人たちでした。しかし、イエスは「しかし、こうなったのは聖書のことばが実現するためです」(14:49)と御父への従順の心をもって、十字架の道へ進まれたのです。

②イエスは「時」を知っておられました

 「時が来ました」(14:41)とイエスは言われました。それは無意味な運命の歯車に従うあきらめでもなく、偶然によって見舞われた悲劇や不幸を呪うことでもありませんでした。心から信頼できる御父が万事備えておられた「時」を、平安をもって受け取り、進んで行くことでした。別の聖書箇所でイエスは弟子たちにこう言われています。「見なさい。あなたがたが散らされて、それぞれ自分の家に帰り、わたしをひとり残す時が来ます。いや、すでに来ています。しかし、わたしはひとりではありません。父がわたしといっしょにおられるからです。」(ヨハネ16:32)。