「虐げられた者の嘆願」

詩篇 10:1-18

礼拝メッセージ 2023.1.22 日曜礼拝 牧師:太田真実子


1.苦しみの時に傍観しておられる神(1-6節)

 9篇と合わせてヘブライ語アルファベットのいろは歌となっており、10篇は後半であると言われています。内容としては、9篇が「国々」、つまり外国や外敵の脅威に関するものであるとすれば、10篇はむしろ国内の不信仰との戦いについて祈っている詩篇であると言えます。主が正しくさばいてくださるようにという叫びと信頼の祈りです。
 「主よ なぜ あなたは遠く離れて立ち 苦しみのときに 身を隠されるのですか(1節)」。腐敗し、混乱した社会の状況であるにもかかわらず、主は無関心でおられるのではないか。遠く離れて立ち、身を隠しているのではないか。どうして、あなたは遠くから傍観しておられるのですかと、詩人は主がご支配しておられるはずのこの世界に、それを見ることができず、どこにもすがりようのない思いで、嘆きの祈りをささげています。
 そして、悪しき者について語られています。「主を呪い、侮ること」「神を求めないこと」「神はいないと思うこと」、神を否定するこれらの思いは、高ぶりや貪欲さの表れであることが分かります。そして、それらの思いは結果として、弱い立場にある人々に対する虐げへと繋がります。「神を愛すること」と「人を愛すること」が決して別々のことではないことが前提とされています。
 ここで語られている「悪しき者」は、「神はいない」と真剣に考えて、語っているのではありません。この世界の真理について、理論的に熟考したうえで、無神論主義が最善だと信じているような者のことではないのです。「神はいない」と公言しているのではなく、「思い」の中で、否定しています。「思い」の中で神の存在を消し去り、神などいないということにして、悪事を働くことを肯定しようとしているようです。
 詩人は、そのような悪しき者たちの自由奔放さによって、虐げられた生活に追いやられて、苦しんでいました。加えて、主のご臨在とご支配を感じられないことに嘆いています。「主よ なぜ介入してくださらないのですか」「どうしてこのようなことをおゆるしになったのですか」という嘆きを、私たちも経験したことはないでしょうか。神が傍観しておられる、あるいは沈黙しておられると感じることがあるのは、今の時代だけに言えることではなく、いわゆる「聖書時代」からそうであったことが分かります。


2.神を恐れない悪しき者たち(7-11節)

 続けて、悪しき者たちがいかに悪事を行い、それによってどれほど大勢の人が苦しんでいるのかについて、より詳しく述べられています。彼らの悪事は、多少の不法にとどまらず、殺しまでにも及びます。「舌の裏(7節)」とは、すぐに舌の先に出して用いることができるように「害悪と不法」が準備されていることを表しているのでしょう。「村はずれ(8節)」とは、城壁のない不用心な場所のことです。隠れたところで容赦なく咎のない人を殺します。「不幸な人(8節)」とは、権力者に虐げられているという意味における「不幸」ということでしょう。
 悪しき者は「神は忘れているのだ。神を隠して永久に見ることはない(11節)」と心の中で言います。しかし、「神は忘れている」のではありません。自分が神を忘れているので、神も忘れているに違いないという誤った確信をしています。
 ヨハネの福音書は「光が世に来ているのに、自分の行いが悪いために、人々が光よりも闇を愛したことである。悪を行う者はみな、光を憎み、その行いが明るみに出されることを恐れて、光の方に来ない(3:19-20)」と語っていますが、悪を行うものは光を拒絶し、ますます闇を愛するようになります。「神に信頼することが最善だ」と分かっていても、神への信頼を先延ばしにして、もうしばらく神に信頼しない日々を送ろうとする、ということもあるかもしれません。私たち人間は、神を認めながらも、自分の罪から離れたくないがために、神いない生活を送ろうと願うことがあります。


3. 永遠の王なる神への嘆願(12-18節)

 悪しき者たちの虐げに苦しむ詩人は、主に嘆きの祈りをささげます。「何のために 悪しき者は神を侮るのでしょうか(13節)」。これは、主に信頼する者の健全な感覚ではないでしょうか。詩人の「主よ 立ち上がってください。神よ 御手を上げてください。どうか 貧しい者を忘れないでください(12節)」という訴えの背後には、主が必ず助けてくださるという確信があることが分かります。それは、14節以降の祈りでより明確にされています。主こそが「永遠の王(16節)」であることを、個人的な経験にとどまらず、イスラエルの民の歴史を通して知っているのでしょう。詩人は、主は「あなたは遠く離れて立ち 苦しみのときに 身を隠される(1節)」という今の自分自身の感じ方だけを信頼して、主に絶望することはしませんでした。主こそが世々にわたり永遠の王であり、苦しむ者を必ず顧みてくださるお方であるという揺るぎない信頼がありました。
 私たちも、「主よ なぜですか」という嘆きの中にある時にこそ、「これまで主がしてくださった良いこと」を思い返し、主が弱い者を正しく助けてくださるお方であることを確認し続けたいと思います。この世のどんな権力者も、自分のたましいを救うことはできません。主だけが、それを取り扱っておられます。ですから、私たちは永遠の王であられる主だけを恐れ、みこころを行う者でありたいと思います。そして、主が定められた時に、主はかならず公正なさばきを行ってくださり、悪しき者たちの虐げによって苦しんでいる者たちが救われるようになることを待ち望みたいと思います。