「苦難の中での希望」

ペテロの手紙 第一 3:13ー17

礼拝メッセージ 2020.3.29 日曜礼拝 牧師:船橋 誠


1,苦難の中で、良い行いをすることを求める

恐れてはいけません

 このような事態の中、私も多くの人々がそうされているように、毎日必ずニュースをチェックしています。感染者が何人になった、どこかで外出の自粛や禁止命令が出された、株価が下がった等、事実だから仕方の無いことですがほとんどのニュースは、ひどいバッド・ニュース(悪い知らせ)です。聞いていて気持ちも落ち込んできます。そうした中で、先日、ある牧師から分けてもらった本を、少しずつ読んでいます。「シンプリー・グッドニュース」(N.T.ライト著)という題で、副題が「なぜ福音は良い知らせなのか」というものです。それを読みながら、このような暗いニュースに取り囲まれ、またその苦しみを蒙っている中にあっても、私たちにはどんなことにも打ち勝てる「良い知らせ」としての福音があることを思い、力が湧いてきました。ペテロの手紙を見ていくと、14節の後半に「恐れたり、おびえたりしてはいけません」と書いています。何を恐れるなと書いているかを見ると、「人々の脅かし」と書かれています。このところを直訳すると「彼らの恐れを恐れるな」となります。注解書を見ても、この「彼ら」(新改訳では「人々」)とは誰を指しているのか、はっきりとはわからないとしています。無名で正体がわからない、漠然とした存在のようです。ちょうど今の状況に当てはめて読み込むことを許していただけるなら、まさに私たちもまだ解明尽くされていないウィルスとの戦いの中にあり、そのことで生じている様々な生活の影響や苦難という、目に見えない敵である「彼ら」と私たちも今、戦っています。しかし、相手が何であろうとも、私たちは恐れなくてもよいし、恐れてはならないのです(もちろん、これは今の状況下で、感染予防を怠って良いというような意味ではありません)。何であるにせよ、不安に縛られてはならないのです。

善であることを求める

 恐れずにどう生きるかという点では、ペテロは「善」であること、「良い行いをする」ことを追い求めるように語っています。ギリシア語本文で調べると、「善」(アガソス)は、この書で6回使われています。「善良で」(2:18)、「幸せな」(3:10)、「善」(3:11)、「良いこと」(3:13)、「健全な」(3:16,21)と訳されています。そして「善」(アガソス)に「行う」(ポイエオー)という語が合成されたアガソポイエオーも計4回出て来ます(2:15.20,3:6,17)。ペテロがどんなに善であることを強調しているかがわかります。
 苦難の中でどう生きるかということが重要です。主は私たちが神の民として、何が善であるのか、どう行動することが良い行いとなるのかを絶えず考え、そのことに励むように勧めるのです。つまり、苦難の中において、私たちの生き方、心の姿勢、品性ということが問われているのです。米国在住の先生からのニュースレターをもらいました。ニューヨーク州で新型コロナウィルス感染者が急増していますが、クオモ州知事が会見で、このような困難なときは誰もが同じ苦しみを味わっていること、医療関係者はいのちの危険を冒して奮闘していること、また生活維持のため多くの人が疲れを忘れて働いていること、食糧供給のために日夜働いている人たちがいることを語り、そのような人たちに対する感謝を表していました。そしてこのような困難なときこそ、人の品格というものがはっきりと現れ出てくるものであり、さらに自分たちの品性を養うときである、と語っていたそうです。苦難の中で自らを見つめ直し、善を追い求めていきましょう。


2,苦難の中で、キリストをあがめる

 「むしろ、心の中でキリストを主とし、聖なる方としなさい。あなたがたのうちにある希望について説明を求める人には、だれでも、いつでも弁明できる用意をしていなさい」。最初に目に留まることばは、「心の中で」という表現です。私たちの心の内側、内面のことです。この宛先の人々の周りの状況は、たいへん厳しいものがありました。彼らはさまざまな敵や迫害者たちに取り囲まれて、苦しみや圧迫があったと思われます。13〜17節の中に、「害を加える」(13節)、「脅かす」(14節)、「ののしる」(16節)、「悪く言う」(16節)とあって、彼らが置かれていた困難な状況が想像できます。しかし、ペテロは言うのです。敵はあなたがたの肉体等の外面を攻撃してくるかもしれないが、あなたがたの内側にあるたましいや、心の中にまで踏み込んで、迫害をしたり攻撃することは決してできないのだと語ります。だから、心の中において、「キリストを主とし、聖なる方」とするよう命じつつ、励ましたのです。14節と17節にある「苦しむ」と「苦しみを受ける」ということばは、キリストの受難予告(例えば、マルコ8:31)でも使われている表現です。キリストは私たちのために苦しみを受けられ(2:21)、十字架の上で私たちの罪をその身に負われました(2:24)。この方を主として、王として、心に迎え入れ、この方をあがめて生きるように導かれているのです。


3,苦難の中で、希望を証しする

 最後に、希望ということです。15節には「弁明できる用意」とあるので、これはペテロが法廷において尋問を受け、釈明しなくてはならない状況を想定してのことばかもしれません。ペテロは、イエスが逮捕され、不当な裁判にかけられようとしたとき、そのあとを追いかけることはしましたが、あなたもその仲間であると問い詰められたとき、「私はその方を知らない」と否認しました。一生忘れられない苦い思い出となっていたことでしょう。しかし、使徒の働きを見ていくと、かつては人々の脅かしを恐れ、怯えていたペテロが、別人になったように変わって、民の指導者たちに向かって「神に聞き従うよりも、あなたがたに聞き従うほうが、神の御前に正しいかどうか、判断してください」(4:19)と語って動じることがありませんでした。同じ使徒の働きの後半には、パウロが捕まり、勾留されて、いろいろな裁き人の前で弁明をしたことが記録されています。例えば、アグリッパ王と総督フェストゥスの前で語った内容は、単なる弁明のことばではなく、伝道メッセージのような内容でした。ペテロもパウロも、苦難の中で、キリストにあるところの希望を明確に語りました。同じように、ペテロは私たちにもそうすることの準備が必要であることを明らかにしています。15節にあるように、「だれにでも」「いつでも」それができるように備えておかなくてはなりません。15節を見てください。「あなたがたのうちにある希望」と書いています。大切な教えはしっかりと心に刻み、備えを致しましょう。