「自分で聞いて知っているのです」

ヨハネの福音書 4:31-42

礼拝メッセージ 2024.9.22 日曜礼拝 牧師:南野 浩則


イエスの弟子たち

 イエスとサマリヤの女性たちとの対話の最中、イエスの弟子たちは食事を求めて他の場所にいたようです。弟子たちはイエスがサマリヤの女性と話しをしているのを見て当惑をしています。それは、弟子たちの考えからすれば、神の教えを語るユダヤ人男性が、サマリヤの女性と語り合うなどあり得ない、間違ったことだったからです。


【コラム】イエスの弟子

 イエスの弟子たちには特別に選ばれた12人がいましたが、それ以外にも多くの(女性を含めた)弟子たちがいたことが福音書から分かります。ある人々はイエスと寝食を共にしたようですが、ある人々はそれぞれの生活の場でイエスに従う生き方を求めたようです。イエスの弟子たちは、イエスを中心に様々な形でイエスに関わっていました。


弟子たちとサマリヤ人たち

 イエスは弟子たちに対して、彼らの知らない食べ物について教え、導きます。その食べ物とは、神の意思を行い、神の業を成し遂げることです。イエスから見れば、弟子たちはグズグズして、神の意思を行おうとしているようには見えません。いずれは、弟子たちはその食べ物(神の意志と業)を食べるでしょうが、それは他の人々の労苦の上に立つものであり、弟子たちが苦難を経験しているわけではないことを指摘します。それは同時に、非難すべきことであるとイエスは暗示します。その一方で、サマリヤの人々は、女性の証言に導かれてイエスとの交流をはじめ、次に自分たちでイエスを知り、信じ、変革を経験しました。


他の人々への共感

 イエスの弟子たちとサマリヤの女性・サマリヤの人々とを対比として考えなければなりません。ユダヤ人男性たちであったイエスの弟子たちは、イエスの使命である神の業を行い、神の意思を実現することに召されていましたが、その労苦を避けていることを非難されています。一方で、ユダヤ人から蔑にされていたサマリヤ人たちはイエスの言葉を聞いてイエスを知り、神の救いを経験します。弟子たちとサマリヤの人々の違いは何であったのでしょうか?弟子たちがいつもイエスとともにいて、その言葉を聞き、その業を目撃していることを考えると、両者の違いは、より意味深くなります。少なくとも、イエスとともにいることがイエスを知る保証にはならないと言えるでしょう。弟子たちは自ら労苦していない、それは何を意味するのでしょうか?サマリヤ人たちの苦しみを弟子たちは想像したり共感したりすることに鈍感であったと思われます。弟子たちのすべてが裕福ではありませんでしたし、ガリラヤ人たちもユダヤ地方の人々から蔑にされていました。しかし、そのような経験をしているからと言って、他の人々の苦難や苦労に共感するとは限りません。イエスの弟子であることに特権意識を持つとするならば、人々への共感は失われるのです。イエスがユダヤ人男性としてサマリヤ人女性に水を求めたという出来事は、このサマリヤ人女性とイエスとの対話において最初に起きたことですが、最も重要な出来事でした。サマリヤ人たちはイエスが自分たちに共感していることを悟って、イエスを知ったのです。
 弟子を含めてユダヤ人は正しかったでしょう。少なくとも自分たちはそのように考え、自負しています。サマリヤ人への姿勢を見ればそれはよく理解できます。しかし、他者への共感のない正しさは危ういものです。イエスは正しさ(ユダヤ人男性はサマリヤ人女性と会話をしない)を超えて、サマリヤ人と共感したのです。イエスはそのように私たちに共感し、私たちが他の人々に共感するように導くのです。