ガラテヤ人への手紙 5:16ー26
礼拝メッセージ 2022.9.11 日曜礼拝 牧師:船橋 誠
1,肉は御霊に逆らい、神の国への道を遮る(16〜21節)
約束の御霊を受けた
パウロはガラテヤ人への手紙の中で、御霊についていくらかのことを書いてきています。たとえば、3章2節「あなたがたが御霊を受けたのは、律法を行ったからですか。それとも信仰をもって聞いたからですか。」とあり、信仰を持った者が聖霊を受けることを明らかにしています。3章14節には「アブラハムへの祝福がキリスト・イエスによって異邦人に及び、私たちが信仰によって約束の御霊を受けるようになるためでした。」と記しています。4章6節では「あなたがたが子であるので、神は『アバ、父よ』と叫ぶ御子の御霊を、私たちの心に遣わされました。」と語り、御霊は私たちが神の子ども、相続人であることの保証であることを示しています。
肉と御霊との対立
律法による裁き、神の祝福を失うとの呪い、そうした束縛から、キリストは私たちを解放し、真の自由を与えられました。ところが、今日の私たちもガラテヤの人々のように、御霊による自由を得ないで、むしろ人間の生まれつきの性質である「肉」と呼ばれる古い自分に戻っていこうとする誘惑に絶えず悩まされています。私たちの心の中には「肉」と「御霊」の戦場があります。パウロは「私は、自分のうちに、すなわち、自分の肉のうちに善が住んでいないことを知っています。私には良いことをしたいという願いがいつもあるのに、実行できないからです。私は、したいと願う善を行わないで、したくない悪を行っています。」(ローマ7:18〜19)と告白しています。パウロはガラテヤ書5章で「肉」と「御霊」は互いに逆らい、対立しているものだと書いています。肉のすることを御霊は嫌い、逆に御霊の望まれることを肉は攻撃します。
肉のわざ
19節から21節に悪徳表とも呼べる罪の数々が挙げられています。「淫らな行い、汚れ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、ねたみ、泥酔、遊興」とあり、数えてみると十五ものことばが並べられています。これらがそれぞれ何を示しているかを一つ一つを細かく見ることはできませんが、ある聖書学者は、ここに罪の四つの領域を見ることができると言います。
第一の領域は、性的なことに関するものです。「淫らな行い、汚れ、好色」の三つはどれも違法な性行為を指すと言われています。最初の「淫らな行い」は、ギリシア語でポルネイアということばで、「ポルノ」の語源です。「性」そのものは神からの賜物であり祝福なのですが、肉はそれを歪めて乱用する方向へと私たちを陥れます。第二の領域は、信仰や宗教に関するものです。それは「偶像礼拝、魔術」です。ガラテヤ教会の人たちは「かつて神を知らなかったとき、本来、神ではない神々の奴隷」(4:8)でした。「魔術」とは、悪の力を操る秘密であり、それは肉の働きです。
第三の領域は、人間関係や集団に関するものです。それが「敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、ねたみ」です。これらが悪徳表全体の中で半数以上を占めていること、人と人との関係、信仰の共同体である教会のあり方についてのものであることは、注目して良いことであると思います。肉のわざは巧妙に働いて、私たちを互いに反目させ、争いを起こし、分裂や分派を生じさせ、やがて散り散りにしてしまうのです。第四の領域は、飲酒に関するものです。「泥酔、遊興」と書いています。これはもちろんお酒を飲むということに関係しますが、適用として考えると、現代ではそれだけでとどまらないと思います。昔から人々は飲酒による心地よさによって、羽目を外して快楽に溺れて来ました。21節にあるように「そういった類のものです」と述べられているように、今日の私たちが同様なものとして使用しているものがほかにもあるのかもしれません。全体をまとめると、肉のわざは、セックス、宗教、関係の破壊、飲酒として現れるということでした。いずれにしても、パウロはこうした肉のわざを行い続けることに対して、「このようなことをしている者たちは神の国を相続できません」(21節)と言って、厳しい警告をしています。
2,御霊に導かれて進もう(22〜26節)
御霊の実
22節から23節では、反対に、「御霊の実」すなわち、御霊によって生み出される行動の実がいかなるものなのかを例示しています。「御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です」。このリストも、九つのことばがあり、これらも三つの領域で見ることができるでしょう。最初の「愛、喜び、平安」は、直接には神に向けられたものです。神との関係により、信仰者が受ける特質として、この「愛、喜び、平安」という最も基本的で本質的なあり方を表しています。次の「寛容、親切、善意」とは、人に向けられたものであり、先程の悪徳表の第三の領域にあったものと真逆のあり方を示します。そして三番目の「誠実、柔和、自制」ですが、これは自己、自分自身に対するものだと言います。最後の「自制」ということばに表現されているように、自分というものをいかに健全に保つかということです。
肉を十字架につける
それでは、肉のわざに引っ張られず、御霊の実が豊かに生じていくためには、いったいどうしたら良いのでしょう。御霊に導かれるとはどういうことなのでしょうか。パウロはここでいくつかのヒントを示します。第一に、19節から21節までに挙げられた、肉のわざの悪徳表をもって、御霊に導かれている行動であるのかを確認することです。御霊に導かれているなら、これら肉のわざの項目のような行動とは決してならないはずです。第二に、「自分の肉を…十字架に」つけるということです。パウロはキリストの十字架を大胆にも比喩として使っているのです。私たちは主を十字架につけたローマ兵のように、肉の古い性質に対しては、冷酷にならなければなりません。肉に対して敬意を払う必要はなく、最悪の犯罪者のように磔にして殺さなくてはなりません。それは苦痛を伴うものです。しかし、無慈悲で妥協のない拒絶によってこれを滅ぼしてしまうのです。これは日々更新されていく必要があります。ルカの福音書の主のみことばがそれを教えています。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい。」(ルカ9:23)。ここで「日々(毎日)自分の十字架を」となっていることに注意してください。三つ目は、25節の「御霊によって進もうではありませんか」という文章です。この「進む」と訳されたことばは、単に一人で進むということではなく、「列をなして進む」という意味です。多くの人たちが恥じることなく肉のわざを進めている中にあって、御霊に導かれて歩むことは簡単なことではありません。でも、御霊に導かれて歩まんとするキリスト者たちが、そうした流れや動きに対して、ひるむことなく、信仰の仲間とともに「しっかりと隊列を組んで対抗せよ」とパウロは熱く語っています。