「肉となった言葉」

ヨハネの福音書 1:14-18

礼拝メッセージ 2023.7.23 日曜礼拝 牧師:南野 浩則


ご自分を顕わす神  14節

 神はどのようにご自身をこの世界に示し、神の価値観を人々に知らせようとしているのか、そのことを14節で述べています。それは神である方(ロゴス)が肉となったことであると言います。つまり、神が朽ちる物質となったということで、具体的にはイエスであるとことです。それを後のキリスト教会は「受肉」と名付けました。


【コラム】

 「ことば」は、新約聖書の言語ギリシア語では「ロゴス」と言います。「言葉」(ロゴス)は単に人間のコミュニケーションとしての言語という意味だけでなく、この世界を成り立たせる事柄という意味を持っています。人々はこの世界を成り立たせているものは何か、哲学的に説明しようとしましたが、ヨハネ福音書は命を与えるイスラエルの神であると証しています。


「受肉」の驚き

 ギリシア哲学として、物質である「肉」は滅びるものであり、それは神には属さないという考えがありました。永遠である「霊」なる神が朽ちて消えてしまう「肉」となるはずがない、そのような思いです。別の言い方をすれば、「肉」となるようなものが神であるはずがないと言うことです。しかし、神は「肉」となって人々の間で住んだとヨハネ福音書は述べます。あってはならないことが起こったと聖書は語るのです。これは驚きでした。


イエスを通して神を見る  17-18節

 古代には、人々は神を見ることはないと考えていました。旧約には、神を見る者は死ぬと言われています。あるいは、聖書の神は像として刻まれることを禁じた神ですから、人が神を見ることはできません。また、神は霊ですから、やはり見ることはできないのです。しかし、神はひとり子を通してこの世界に見えない神を見せました。神を紹介しているのです。
 この世界を成り立たせている神を知りたければ、イエスの生涯・死・復活を知れば良いのです。神は真理を、このイエスを通して表わされたのです。


常識を超えて

 当時の常識を超えた「受肉」を通して、神は自らを顕わされました。人々は常識でないものを疑います。あるいは、肉となるような神は本物ではないと人々は非難するでしょう。それを覚悟した神ですが、敢えて常識を超え
ようとしました。常識には救いはないのです。


肉となった言葉(ロゴス)

 神である方が肉となり、人間とともにこの世界に生きました。聖書の神は人間から離れた場所で人間を指図する神ではありません。人間とともにいて、人間の生活を経験し、人間に関わることを選んだ神です。①神は愛する人間を指導することではなく、共感することで救おうとしたのです。そして、②人間としてのモデルを示されました。言葉が肉となったのは、私たちが神を知り、神を信頼し、神に従う、それらを実現するためだったのです。その神のみ心に生きたいものです。