「聞こえぬ耳を開く奇跡」

マルコの福音書 7:31-37

礼拝メッセージ 2021.3.14 日曜礼拝 牧師:太田真実子


1.耳を聞こえるようにし、口をきけるようにされた

⑴ ツロからガリラヤ湖までの経路

 イエス様の弟子たちの出身地といえば、ガリラヤ湖のすぐ西にあるガリラヤ地方で、そこはイエス様の宣教の中心地であったとも言えます。先週お読みした箇所では、イエス様がガリラヤ地方の北西にあるツロという町に滞在しておられた時のことが書かれていました。
 そして、その続きである今回の聖書箇所では、再び“ガリラヤ湖”に向かわれたとあります。しかしその経路を見てみると、随分と遠回りをされたようです。ツロからガリラヤ湖まで最短経路で向かうには、ガリラヤ湖のすぐ西の地方に広がるガリラヤ地方を直進すればよいのですが、北から大きく回り、ガリラヤ湖の南東にあるデカポリス地方を通って、ガリラヤ湖まで向かわれたようです(31節)。つまり、本日の聖書箇所の舞台である“ガリラヤ湖”は、ガリラヤ地方のガリラヤ湖畔から見て反対岸にある、異邦人が居住する地域、デカポリス地方の“ガリラヤ湖”になります。

⑵ 天の神の恵みによる解放

 イエス様がこのガリラヤ湖に足を運ばれると、ここでもまた群衆が押し寄せてきたようです。マルコの福音書によると、イエス様がこの地方に来られたのは2度目であり、その間にイエス様の癒しのわざが広く伝えられていたのかもしれません。人々は、「耳が聞こえず口のきけない人」を連れてきて、「彼の上に手を置いてください」と懇願しました。イエス様が手を置くことによって癒された人をそれまでに見てきたのか、聞いていたのでしょう。イエス様のわざを疑うことなく信じ、イエス様にすがりつく、人々のイエス様への信頼が見受けられます。

 「手を置いてください」という人々の願いに対して、イエス様はその人だけを群衆から連れ出して、ご自分の指を両耳に入れ、それから唾を付けてその舌にさわられました(33節)。そして、天を見上げ、深く息をして「開け」と言われると、その人の耳が開き、下のもつれが解け、はっきりと話せるようになったと書かれています(34・35節)。
 「開け」という言葉には、「解き放たれよ」という意味があります。イエス様の「開け」という言葉は、「耳と口が開け」という意味でしょうが、彼は耳と口が開かれたことによって様々な苦痛からの解放もあったはずです。現代にも言えることかもしれませんが、当時のこの地方では、このような障害がある人は差別を受けたり、社会的に排除されたり、問題視されたりしていました。それゆえに、そのような人々が孤独や絶望を通ってきたことは容易に想像できます。彼の場合は、人々がイエスのもとに彼を連れてきたと書かれているので幸いな方かもしれませんが、周囲の人々の力ではどうにもすることができず、皆が手詰まり状態であったと言えます。

 辛いところを通らされてきた彼に対してイエス様は「手を置いて」癒されたのではなく、彼の痛みや苦しみに直接手を触れられました。彼の“傷”を直視せずに癒されたのではなく、そこに触れて、慈しまれたのでした。そしてまた、イエスのいやしのわざは群衆を虜にするほど奇跡的で、驚異的な力でしたが、イエスは神の子でありならがご自分を誇ることはなさいませんでした。「天を見上げて」という描写が、イエス様が神をほめたたえたことの表れであるのか、神に祈り求めたことの表れであるのか、明確なことはわかりませんが、それは私たち読者にイエス様の力が天の神に起因するものであることを思い起こさせてくれます。イエス様の奇跡のわざには、神の栄光が表されているのです。


2.イエスに癒しを求めた異邦人たち

 イエス様が「このことはだれにも言ってはならない(36節)」と命じられたことについては、様々な解釈があります。1つは、イエス様の最大の目的は神の国の福音を宣べ伝えることであったので、人々がイエス様を単なる奇跡を行う人として見ることができなくなってしまうことや、異邦人たちが誤ったメシア像をもってイエスに期待してしまうことを懸念したためであったというものです。イエス様は以前にも、誰にも何も話さないようにと口止めをされたことがありました(1章44節)。マルコの福音書を見るには、イエス様が宣教の旅を開始されてから休む間もなく群衆がイエス様を求めてやって来ています。その状態を一度ストップする必要を感じられたのかもしれません。

 一方で、イエス様が口止めをされてもなお広がり続けていくイエス様についての評判は、隠そうとしても隠れることはできない福音の良い知らせとしての所以であるとして、まさに「隠れているもので、あらわにされないものはなく、秘められたもので、明らかにされないものはありません(4章22節)」というイエス様のことばの実演であると見る人もいます。
 口止めをされたイエス様の真意について断言はできません。しかし、いずれにせよ注目したいのは、癒しを求めてイエス様のもとに群衆が押し寄せてくるという点においてはすべての地域に共通していながらも、イエス様に敵対する人物が登場するのは異邦人の地域ではなく、圧倒的にユダヤ人の地域であったということです。
 異邦人の地域で、耳が聞こえず、口がきけない人の耳と口が開かれたというこのエピソードは、耳が聞こえるのに聞かず、目が見えるのに見えない、耳も目もイエス様に対して開かれておらず、イエス様に厳しい言葉を発するパリサイ人や律法学者たちを思い起こさせます。もちろん、イエス様に癒しを求めた人々に、イスラエルの歴史を導いて来られた神への理解や信仰があったかというと、おそらくそうではありません。しかしパリサイ人や律法学者たちは、聖書の専門家としての自負があったからこそ、またイエス様の同郷の人々には、幼い頃からイエスをよく知っているという自負があったからこそ、素直な心でイエス様のことばを聞くことができませんでした。たとえイエス様のなさることに不信感を抱いたとしても、彼らが他者に対して「聞く耳」を持っていたら、彼らの耳も開かれていたかもしれません。

 たとえ自分の考えや価値観が聖書を基にしたものであったとしても、私たちが他者に耳を傾けることのできないほどに頑固になってしまうならば、神様のみこころに沿っていると思い込んでいるだけで、いつの間にかみこころから大きく外れてしまっているということになりかねません。また、神様を信じていながらも、日々の生活で神様を見ようとしていないならば、たくさんの恵みを見落としてしまっているかもしれません。
 私たちは隣人にも、神様にも、耳や口や目、そして心が開かれて、豊かな恵みを受け取っていくことができるように、素直な心を大切にしていきたいと思います。