「聖書が語る未来予測図③—終末の不意打ち」

マルコの福音書 13:28ー37

礼拝メッセージ 2015.4.12 日曜礼拝 牧師:船橋 誠


1,終末が           (近づいている)ことを知りなさい(13:28−31)

①「学びなさい」「知りなさい」

 イエスが語られたオリーブ山での終末講話の最後の部分を学びましょう。今日の聖書箇所は、「いちじくの木の教え」(28−31節)と「誰も知らないその日とその時」(32−37節)の二つの部分に分けられます(ギリシャ語UBS本文の見出しより)。この箇所で語られたことの中で、興味深い一つのことは、前半のほうは「あなたがたは知っている」(28と29節)あるいは「知りなさい」と言われているのに、後半の部分では「あなたがたは知らない」(32,33,35節)と語られていることです。終末や世の終わりについての話になると、多くの人は「それはいったい、いつ起こるのか?」ということに関心が集まりますが、その時期については聖書は知らない、あるいは知るべきではないと語っています。では何を知り、何を学ぶべきでしょうか。それは終末が近づいていることを知りなさいと言われているのです。正確な時期を知ることが必要ではなく、近づいている終末を覚えて生きるようにイエスは語られました。終末感覚をもって生活することが必要なのです。

②天地が滅びても、決して滅びないものがあります

 31節でイエスは「この天地は滅びます。しかし、わたしのことばは決して滅びることがありません。」と言われました。これは聞き方によっては、天地が滅びるという恐ろしいお言葉ですが、むしろ強調はあとの方にあると言えます。大きな戦争や震災を経験したこの国に住んでいればわかることですが、確かにずっとなくならず、滅びず、失われないものは、この地上のかたちあるものの中には見つけることはできません。でも、イエス・キリストの言葉、聖書の言葉、福音は、決して失われないものです。有名なコリント人への手紙第一13章に、「いつまでも残るものは、信仰と希望と愛です。」と書いてあるとおりです。私たちにはこれさえあればだいじょうぶと言えるものがここにあるのです。今一度、何をたいせつにして生活するのか、何を信頼して歩むのかを考えてみましょう。


2,        (目をさまして)生活しなさい(13:32−37)

①目をさましていなさい

 聖書が「目をさましている」あるいは反対に「眠っている」と表現するのは、肉体の睡眠や覚醒を言っているわけではありません。それは霊的に目覚めて生きることを言っているのです。「目をさまして、正しい生活を送り、罪をやめなさい」(Ⅰコリント15:34)、「誘惑に陥らないように、目をさまして、祈り続けなさい」(マルコ14:38)とあるようにです。罪や誘惑に負けて、怠惰な生活にふけらないようにとイエスは教えています。

②主人は不意に帰って来られます

 34節に「しもべたちにはそれぞれ仕事を割り当てて責任を持たせ」とあります。いろいろなイエスのたとえ話にもあるように、旅に出た主人、あるいは不在地主は、しもべたちに自分の仕事をゆだね、出かけます。しかし出て行ったままで戻らぬことはなく、必ず帰って来られるのです。34節の「責任」と訳された言葉は「権限」「権能」「力」の意味があります。イエスは弟子たちに、ご自分が地上を去った後も、それぞれに主の働きを割り当てられ、それを行うための「権能」を付与し、あとは万事よろしく頼む、と任せられたということなのです。これはこの当時の弟子たちだけではなく、37節で強調されているように「すべての人に言っている」言葉です。神からゆだねられた働きにしっかりと取り組み、歩み、生きること、まさにそれこそが目をさまして生きることにほかならないのです。終末の出来事の終局は、イエス・キリストとお出会いすることです。それは楽しみであり、期待すべきことなのです。「神は、私たちが御怒りに会うようにお定めになったのではなく、主イエス・キリストにあって救いを得るようにお定めになったのです。」(Ⅰテサロニケ5:9)