マルコ福音書 9:42-50
礼拝メッセージ 2021.6.13 日曜礼拝 牧師:南野 浩則
躓かせてはならない
「信じるこれらの小さい者たちのひとりでも躓かせる者」は、ロバの挽き臼に首を結わえられて海に投げ込まれた方が良いと言われています。ここで小さい者とは、身分が低い人、社会的価値の低い人という意味合いのようです。「躓かせる」はスカンダリゾーという言葉が用いられており、スキャンダルと言う言葉の語源です。罠に陥れるという意味で、人の行く手の邪魔をする、転じて誰かを堕落させるとなります。社会的地位の低い人たちの行く手をさえぎり堕落させる者は、石臼につけられて海に投げ込まれる方がましであると言われています。社会的地位の低い人は別に堕落しようが、それで神の祝福を失おうがかまわないと考えられていました。しかしイエスはそのような者への軽蔑を含めた行動は神の裁きを招くと警告しているのです。
43節以下は自分との関係について述べています。ここでは自らの身体の一部が私たち自身を躓かせるならば、それを切ったほうが良いと言います。石臼に付けられて海に投げ込まれる話も、体の一部を切断する話も、もちろん比喩です。この極端な比喩の使用は、問題の深刻さを表現しています。ゲヘナは、「ヒンノムの谷」と言う地名がなまった言葉です。イエスの時代、ごみの焼却場としても用いていたようで、地獄のイメージと結びつくようになっていました。むしろ、人は塩気を維持して、人々との平和を保つように命じられています。
躓きという考え方
躓きという考えが大きな課題となっています。聖書における躓きとは、神への信頼(信仰)や人間への信頼を奪ってしまう働きや行動あるいは考え方を指します。指摘しておかねばならないことは、躓きそのものは悪いとか、良いとかは言い切れない面があることです。イエスが十字架に架かったことは、ユダヤ人にとっては躓き(スキャンダル)であるとパウロは1コリント1:23で述べています。メシアとして告白されている人物が、木に架けられてさらし者にされるわけがないとユダヤ人は考えていました。イエスの十字架の問題だけでなく、イエスの語った言葉・行動(神の支配運動)は当時のローマ人にも拒否すべき事柄であり、現代人の多くにとっても賛同できない事柄です。イエスの福音は、それに賛同して従おうとする者には良い知らせとなるが、拒否する者には裁きの言葉となる、そんな厳しい側面があります。
もちろん、本日の聖書箇所はそのような福音を語るが故の躓きを述べているわけではありません。私たちの無知・無関心・無責任・悪意が原因で、神から人(他者だけでなく、自分と言う存在もその範疇に含まれる)を引き離してしまうこと、それが問題となっています。それは私たちにとって関係の深い人々、あるいは自分にとって価値を認めることの出来る人々だけに留まりません。社会から価値がないとされてしまった人々を、私たちが無関心や無知・悪意で躓かせてしまうことも、当然のこととして対象となります。人は何によって躓くのか解りません。ある人にとっては気にならない言葉や事件であっても、別の人にとっては躓きの言葉や出来事となります。あるいは長年培ってきた人間同士の信頼関係も、ある一言、ある一つの態度で、一瞬のうちに無に帰してしまうことも少なくありません。しかも一度崩れた関係は、全く同じものには戻りません。躓きは、信頼関係を取り返しのつかないものになります。それは私たちと神との関係でも同じです。私たちの行動や言葉で、神の言葉や行動に信頼性を失わせてしまうならば、神を悲しませるだけでなく、神を信じていた人々を神から引き離すことにもなるのです。躓きが神と人との関係を変えてしまいます。しかもそれは無責任になされることが多いようです。だからこそ躓きは恐ろしいのです。
和解の勧め
取り返しのつかない躓きに対して、どのように考えるべきでしょうか? 起きることを防ぐための様々な手立ては必要です。ただ、それでも躓きは必ず起きるものです。私たちは、聖書が示している和解の問題を取り上げなくてはなりません。躓きとなった問題そのものは取り返しがつかなかったり、解決がつかなかったりすることは多いものです。だがそこから、躓かせた人と躓いた人との和解が必要です。時間は非常にかかる事柄ですが、その和解への期待を持つことが出来るのは神を信じる者の特権の一つです。躓きの事実は認めつつ、しかし躓かせた者だけでなく躓かせた者も、その苦しみから解放されるプロセス(過程)に入らなくてはなりません。そうではなければ私たちがイエスを信じ従う意味がなくなってしまいます。踏み出した和解のための作業に神への期待・信頼が働くのです。