「結婚生活において主に従うこと」

マルコの福音書 10:1-12

礼拝メッセージ 2021.6.20 日曜礼拝 牧師:太田真実子


1.パリサイ人たちの律法に関する誤った見解

 パリサイ人たちはイエス様に、夫が妻を離縁することは律法にかなっているのかどうかを尋ねました。それは彼らが結婚生活に悩んでいるからではなく、イエスを試みるためであったと書かれています。パリサイ人たちは、様々な手を使ってイエス様を陥れようとしていました。このような質問に対して、イエス様は「神が結び合わせたものを、人が引き離してはいけません」と答えておられます。要するに、離婚してはならないということでしょう。
 しかし、私たちはイエス様のことばを注意深く観察しなければなりません。ここで取り上げるべき問題は、「離婚してはならない」という結論そのものではなく、そもそもパリサイ人たちの律法に対する捉え方が不適切であるということです。律法において最も重要であるのは、律法による細かな対応よりも、律法の本質であるからです。律法は原則として、「神を愛し、人を愛する」ということを軸にして成り立っていることに、私たちはいつも注目している必要があります。

 モーセの律法において離縁することが容認されていたのは、結婚生活に苦しんでいる人、なかでも当時は弱い立場にあった女性を保護するためであり、やむを得ない対応であったと考えられます。イエス様が「あなたがたの心が頑ななので、この戒めをあなたがたに書いたのです(5節)」と言われた通り、頑なな心によって結婚生活が破綻し、苦しんでいる人には、やむを得ない対応が求められました。
 しかし、パリサイ人たちは、このような律法の意義には関心を払っていないようです。彼らはいつも、イエス様が「律法と矛盾した発言をするかどうか」、あるいは「律法に反する行動をするかどうか」ということばかりに注目していました。ですから、イエス様はここで「そもそも結婚とは何か」ということをお語りになって、パリサイ人たちの律法に対する見解を指摘なさいました。


2.神によって結び合わされた夫婦

 それでは、「神によって結び合わされた」とはどういうことでしょうか。神が人間をマインドコントロールしたり、ロボットのように機械的に動かしたりして、ふたりの人間を夫婦とされたということでしょうか。
 結婚には、責任を伴った結婚生活への決断が必要です。ですから、結婚のきっかけが誰かの勧めによるものであったとしても、その決断は自ら下したものでなければなりません。しかしだからと言って、その結婚は完全にふたりの意志だけで成立したものであるとは言えないことが、イエス様のことばに表れています。

 クリスチャンとなった者が主に従っていく決断をする時のことを考えてみたいと思います。その決断はたしかに自らの意志によるものではありますが、イエス様は「あなたがたがわたしを選んだのではなく、わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命しました(ヨハネ15章16節)」と言っておられます。ですから、私たちが神を見出すよりも先に神の選びがあることになります。ところが、私たちが意志を持って主に従うことを決断し、キリスト者として主に従っていくこともまた大切です。このように、「神の選びと私たちの決断について、どちらが先か」と言われたら「神の選び」が先なのですが、神の選びと私たちの自由意志との関係は、合理的には説明ができないものです。
 しかし、それでもあくまで「神の選びが先」であるということには、私たちにとって大きな意味があります。私たちの意志がどれほど脆くても、「神が選んでくださった」ことに私たちがキリスト者として生涯を全うする責任の根拠があるからです。
 そして、結婚生活の場合においては、互いに大切にし合うべきであることの最も重要な根拠は、「神が結び合わせてくださった」からであると言えます。結婚に至る決断の背後には必ず神の導きがあり、それゆえに、夫婦は「もはやふたりではなく、一体」であるので、好き勝手に相手を傷つけてはならないのです。


3.互いに大切にし合うということ

 イエス様のことばには力があるからこそ、「神が結び合わせたものを、人が引き離してはなりません(9節)」ということばを切り取って、結婚生活に悩み苦しんでいる人をさらに苦しめるようなことはないようにしたいと思います。
 それは、このことばはイエス様を試みようとしたパリサイ人たちに向けられたものであるからです。結婚とは原則として神によって結び合わされたものであるために、人の手による好き勝手な離婚の手続きは無効とされることをイエス様は明確にしておられます。おそらくパリサイ人たちは、律法に則って正規の手続きを踏めば問題ないと、結婚というものを軽んじていたのでしょう。結婚とは、ふたりが互いに大切にし合わなければなりません。どちらか一方だけの努力では成り立たないものです。ですから、もしイエス様が、結婚生活に悩み苦しんでいる人から離婚について尋ねられたとしたら、全く違うことばをおかけになったかもしれません。
 大胆に福音を宣べ伝えたパウロも、「命じるのは私ではなく、主です。妻は夫と別れてはいけません(Ⅰコリント7章10節)」と語っていますが、「信者ではない夫あるいは妻がいて、相手が一緒にいることを承知している場合は、離婚してはならない」という言い方もしており、これについては、「これを言うのは主ではなく、私です」と付け加えています(Ⅰコリント7章11・12節)。具体的なケースについては、主による権威づけがなされていません。結婚生活においては様々なケースがあるので、重要なのは離婚の不可や条件ではなく、「結婚とは何か」というところです。

 結婚生活において主に従うとは、主の御前に謙虚な者となり、結婚が神に結び合わされたものであることを認めて、それゆえに互いに大切にし合うということです。結婚は「神が結び合わされたもの」であるというイエス様のことばが、すでに離婚を経験している人たちを陥れるようなことばとしてではなく、結婚しているふたりを主の御前に謙虚な者とさせ、また、すべての人に、神による結びつきのゆえに結婚関係を決して軽んじてはならないことを諭すものであるようにと願います。そしてまた、イエス様の教えには「神を愛し、人を愛する」ということがいつも中核にあることを心に留めたいと思います。