「終末のしるし」

マタイ福音書 24:1-14

礼拝メッセージ 2022.12.4 日曜礼拝 牧師:南野 浩則


終末のしるし

 マルコ福音書13章のイエスの終末に関する言葉を受けています。ただし14節は、マルコ福音書には記されておらず、マタイ福音書にのみ記された言葉です。その意味は後程に考えたいと思います。
 この世界が終わるという考え方が弟子たちにはありました。旧約聖書はそのような終末を暗示していると読むことができますし、ユダヤの人々の一部はそのようなことを考えていました。ここで弟子たちの問いは、終末そのものではなくその兆候です。終末の先駆けとして何が起きるのか、この世界はどのような状況に追い込まれるのか?
 それに対してイエスはいくつかの事柄を挙げながら弟子の質問に答えます。まず、偽預言者の登場です。イエスを名乗る者が現れると言われています。これは「自分がメシアである」「自分こそ救済者である」と叫ぶ人々です。確かに自らを「メシア(キリスト)」と名乗って人々を扇動した人はかつて存在しましたし、今も存在しています。ただ、「偽メシア」はそのようなキリスト教の異端的教えに限りません。自らの正義や神の正義を唱えつつ、人々を神の価値観とは全く違った方向に導く人々を指しています。そこには政治を司る人々も含まれると考えて良いでしょう。次に戦争の経験、戦争の知らせについて書かれています。歴史の中で戦争がなかった時代は一つもなく、戦争を経験しなかった民族は一つもありません。飢饉や地震について述べられ、天災のことが考えられています。どこかで災害に苦しむ人がいます。同時に、天災はすぐに人災に転嫁します。天災に苦しむ軽重が社会の(政治的、社会的)ランクで決まってしまうことがあります。天災は人間の責任ではありませんが、それが人災になるとすればそれは人間の問題となります。次に、イエスを信じる者に対する迫害の予告が語られます。イエスの名のために人々から憎まれ、それは人々の間に不信を生むのです。愛が冷えるとも言われており、人間の自己中心的な生き方が蔓延します。もちろん教会への迫害が意図されてはいますが、イエスが宣言した神の御心、人々が互いに大切にし合うこと自体が踏みにじられることが言われています。イエスを知らなくとも、この世界にはイエスの生き方にまねている人々、神が意図された生き方を生きている人々がいます。そのような人々も、不法に満ち愛が冷めた世界からは憎まれます。本当の意味でこの世界を支える人々がこの世界から憎まれるのです。そうなれば、この世界は混乱し、神の思いから遠い世界になっていきます。
 13節、そのような希望が失われた世界ですが、イエスは忍耐することを勧めます。新約聖書の終末に関する記述を見ると、この「忍耐」は一つの主題であり、多くの箇所で勧められています。希望のない世界ではあっても、確実に神の支配の良い知らせは着実に拡大し浸透します。14節の言葉は、終末から見たマタイ福音書の宣教のビジョンであり、繰り返し語られます。


「すでに」到来している終末

 終末までを指し示す兆候が挙げられていますが、その一方で、ここでイエスが語ることは、この言葉が語られて記録されて約二千年間に起き続けてきたことであることばかりです。天災が人災に代わってしまうことを含めて、人間の愚かしさの結果が綴られています。見方を変えれば、人間は常に終末に直面しながら生きていることになります。実は、終末とは神の行動が開始する時を意味しています。聖書はその終末(神の行動)について2つの側面から語ります。1つは、イエスの出来事においてすでに終末が始まっていることです。もう1つは、本日の聖書箇所のように、未来において終末が到来することです。私たちは「すでに」と「いまだ」という2つの終末の時代に生きています。いずれの視点をも失ってはなりません。本日は、「すでに」の観点から終末を考えたいと思います。イエスはまず、終末への兆しを挙げながら、最後には忍耐すること、そして神の支配の福音が世界に伝えられていくことを述べています。これは、「すでに」イエスを信じて、イエスを通した救いを経験した者たちが今なすべきことです。神の考え方、価値観がこの世界に伝えられ、拡大し、浸透することが終末につながっていきます。それは伝道だけではなく、神の考え方を生活や社会活動を通じても実現していくことを意味しています。イエスは苦難を経験している人々がその苦しみから解放され、神の恵みに生きていくこと、しかも一人ではなく他の人々と共にその恵みに生きていくことを望み、恵みを分かち合い、その実現へと宣教の働きを進めました。イエスの弟子たちはそこに「すでに」やって来た終末を見たのです。弟子たちはその終末に相応しく生きようとした、つまり神の意志(神を愛し、人を愛する)に従って生きようとしたのです。まずはこの終末の意義を確認しておきたく思います。イエスにおいて実現された救いに業は、この地上に今、実現することを神は求めています。