「約束の地へ帰れ」

創世記 31:1ー16、43-55

礼拝メッセージ 2019.11.3 日曜礼拝 牧師:船橋 誠


1,ヤコブが学んだこと(1) 善をもって悪に打ち勝つこと

自己中心的な主人のもとで

 ヤコブの20年間に渡る雇用主はラバンという彼の義父でした。ラバンという人は、聖書に描かれているところからすると、あまり良い先生、上司ではありませんでした。彼は、非常に自己中心的な人で、自分の利益のみに関心があったように見えます。そのためには、雇っている人に対して、無理難題を押し付け、不公平な扱いを平気でおこなったのです。彼は自分の利益のために、人々を利用していたように思われます。実の娘たちでさえも、彼は疑いの目で見られていました(14〜16節)。ヤコブが追いかけて来たラバンに話したことば(36〜42節)を見ると、ラバンがヤコブにどんな仕打ちをしてきたのかがわかります。「私があなたと一緒にいた二十年間、あなたの雌羊も雌やぎも流産したことはなく、また私はあなたの群れの雄羊も食べませんでした。野獣にかみ裂かれたものは、あなたのもとへ持って行かずに、私が負担しました。それなのに、あなたは昼盗まれたものや夜盗まれたものについてまでも、私に責任を負わせました。」(38〜39節)。そして「それなのに、あなたの父は私を欺き、私の報酬を何度も変えた」(7節、41節)とヤコブは訴えています。

知恵と忍耐とをもって

 このように不当な扱いを受けて来たヤコブでしたが、彼はそれに対して、悪い行いによってラバンに仕返しすることがありませんでした。ヤコブはずる賢く、兄弟や父親さえも騙して、逃げ出して来た人でしたが、ラバンのもとで働いたヤコブは不正をもって、この悪い雇い主に対抗しなかったのです。正しい行いをもって、戦ったのです。「悪に負けてはいけません。むしろ、善をもって悪に打ち勝ちなさい。」(ローマ12:21)のとおりです。また詩篇37:5〜7「あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる。主は あなたの義を光のように あなたの正しさを 真昼のように輝かされる。主の前に静まり 耐え忍んで主を待て。その道が栄えている者や 悪意を遂げようとする者に腹を立てるな。」に示されています。
 では、どのようにヤコブはこの難しい主人のもとで働いたのでしょうか。それは知恵を十分に使い、忍耐をもって仕えたのです。彼が家畜をどのように増やしていったのか、30章37〜43節に記されています。その方法が今日の時代に通用するかどうかはわかりませんが、その時代の彼なりのやり方で、見て観察し、創意工夫して行ったのです。もちろん背後において神の祝福の御手がありました。また、レアとラケルとの結婚で、合計14年間働いた彼でしたが、さらに6年間忍耐してラバンのところで働きました。この20年間は、ヤコブにとって大変苦しい困難な時期であったと思いますが、しかし同時にこの20年間がヤコブを整えるためになくてはならない歳月であったこともわかります。ヤコブと同様、私たちも試練の歳月を通して、忍耐を学ぶのです。「苦難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出す」のです(ローマ5:3〜4)。


2,ヤコブが学んだこと(2) 神がともにいてくださること

私がどこにいても神はともにおられる

 ヤコブの大事な信仰の経験は、28章で見た、ベテルでの出来事でした。旅の途中、石を枕にして見た夢です。御使いたちが天に届くはしごを上り下りしていました。この出来事の中で繰り返し語られたのは、「主はあなたとともにおられる」というメッセージでした。28章15節「見よ。わたしはあなたとともにいて…」、16節「まことに主はこの場所におられる」、20節「神が私とともにおられて…」。両親や家族の住む家から離れても、そこに主がともにおられる。ベテルの神は、ベテルだけにおられるのではなく、ユーフラテス川を越えた北方のハランにおいても私とともにいてくださった。それがヤコブの信仰の確信でした。31章に戻ると、3節で主が言われたことばは「あなたが生まれた、あなたの父たちの国に帰りなさい。わたしは、あなたとともにいる。」でした。5節でヤコブは「しかし、私の父の神は私とともにおられた」と証ししています。主キリストの大宣教命令も、同じ約束のことばで締めくくられています。「見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます」(マタイ28:20)。

神がともにおられることはどうしたらわかるのか

 神が自分とともにいてくださるという信仰の理解は、信仰というものが自分にとって生き生きとした現実になるかどうかの重要な鍵を握っていると思います。しかし、ある方は思うかもしれません。神が私とともにおられると、どうしてわかるのか、目に見えるわけではないし、触れることもできず、ヤコブのようにはしごの夢も見たことがないし、と。そう思われることも当然です。でも神がおられる、しかも私とともにおられ、守り、報いてくださるお方であると信じることが、信仰の基本であると思います。「信仰がなければ、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神がご自分を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです」(ヘブル11:6)。ヤコブが得たもっとも大切な学びは、どんなに困難な中に自分があっても、神はいつもともにいてくださったという信仰です。では、どのようにしてそのような信仰が可能になるのか、それは信仰の目を持つことです。ヤコブは信仰の目をもって、すべてのことを見ていたことがこの31章で証しされています。7節で「しかし神は、彼が私に害を加えることを許されなかった」と告白しています。9節では「こうして神は、あなたたちの父の家畜を取り上げて、私に下さったのだ」と言っています。では、ヤコブがどのようにこの信仰の目を持つことができたのか、ということです。それは神との交わりです。具体的には、礼拝であり、祈りです。彼が祈ったという記事はありませんが、彼が神との交わりを持っていたことは、これまでの聖書の記述で明らかです。


3,ヤコブが学んだこと(3) 神が自分を導いておられること

 3節「主はヤコブに言われた。『あなたが生まれた、あなたの父たちの国に帰りなさい。わたしは、あなたとともにいる。』」 主からのこのヤコブへのことばは、彼の人生の一大転機となる語りかけでした。この御声を聞く、おそらく6年前、ヤコブは故郷に帰ることの願いをラバンに申し出ていました(30:25)。でも、まだ帰るべき「その時」になっていなかったのです。20年間いた場所からの旅立ち。自分一人のことではなく、大家族での移動です。ハランからヘブロンまでたいへん長い距離です。しかし神から御声を聞き、祖父アブラハムのようにヤコブは出かけていきました。出エジプトのモーセとファラオとの対決のように「われらを去らせよ」とヤコブはラバンとの最後の対決をしました。これは避けて通ることのできないものでした。このことにより、彼は人生の一つの段階をクリアしたのでした。