「私を見捨てないでください」

詩篇 38:1ー 22

礼拝メッセージ 2023.11.5 日曜礼拝 牧師:船橋 誠


1,肉体的苦痛の中にいる人

 この詩篇は、伝統的に「七つの悔い改めの詩篇」(6、32、38、51、102、130篇)に数えられる一つですが、私たち読者がここに見るのは、重い病気で苦しみもがいている一人の人物です。彼は「ヨブ記」に書かれているヨブ自身のように、たいへんな苦しみの中にありました。全体を読んでいくと、その苦痛は大きく分けると三つありました。それは、肉体的苦痛、霊的苦痛、社会的苦痛です。
 ここには、ほかの詩篇に見られないほど、症状について多くのことが書かれています。「私の肉には、完全なところがなく、私の罪ゆえ、私の骨には、健全なところがありません」(3節)、「私の傷は、悪臭を放って腐り果てました」(5節)、「私の腰は火傷でおおい尽くされ」(7節)、「私の胸は激しく鼓動し、私の力は私を見捨て、目の光さえも、私から失せてしまいました」(10節)。詳細に見れば、5節は傷口が開いて膿んでいることのようですし、7節の「火傷」とは潰瘍やただれのことなのかもしれません。10節の胸の鼓動は激しい動悸であり、目の光が失せるとは視力が奪われるような目のトラブルだと思われます。
 旧約聖書では、申命記28章に病気のリストがあります。「疫病」(21節)、「肺病、熱病、高熱病、悪性熱病」(22節)、「腫物、腫れもの、湿疹、疥癬」(27節)などが挙げられています。レビ記13章などの「ツァラアト」という病気もあります。ヨブの病気は全身に広がる「悪性の腫物」(ヨブ2:7)で、おそらくヒゼキヤも同じでした(イザヤ38:21)。新約聖書ではパウロも病気を持っており、それは「肉体のとげ」(Ⅰコリント12:7)、「肉体には…試練となるものがあった」(ガラテヤ4:14)と書いています。眼病、マラリヤ、てんかん発作などと推測されています。宗教改革者ルターは、痛風、不眠症、胃腸障害、結石、目まいなどの持病があったそうですし、カルヴァンは、偏頭痛、咳の発作、肋膜炎、結核、結石、神経痛などで苦しんだようです。病気やさまざまな苦しみというのは、その痛みだけのことではなくて、多くの場合、その苦難が元となって、別の困難や痛みを生み出してしまうのです。


2,霊的苦痛の中にいる人

 作者は自分の病気や苦痛が自らの罪への神からの報いであるとして、主に告白しています。「私の罪のゆえ」(3節)、「私の愚かさのため」(5節)、「自分の咎…自分の罪」(18節)と祈っているのです。32篇も罪の悔い改めが綴られているのですが、この38篇と対照的なのは、32篇のほうは作者の中に具体的に犯してしまった罪があるように見えることです。32篇では、それを告白して、神からの赦しを確信しています。そしてその確信から感謝の応答の賛美が語られているのです。ところが、この38篇は、そのように祈りから確信、確信から賛美という流れがありません。むしろ、作者には確信も賛美もなく、祈りに始まり、祈りで終わっているのです。
 ここにこの詩篇作者の苦悩が読み取れます。罪を告白して、主に赦されて、喜んで賛美ができれば良いのですが、この詩篇ではそうではないのです。なお、苦しみが続き、病気は治らず、救いを先取りして喜ぶこともできないのです。しかし、それこそがこの詩篇の特徴であり、その深さであると言われています。なぜなら、人間の現実、そして信仰生涯におけるさまざまな経験は、定形通りのかたちで進まないことがあるからです。「信仰があり、祈っているなら、こうなるはずだ、そうでないとおかしい」と私たちは自分の理解の範囲で、神のなさるわざと、自分の人生を解釈しようとしますが、しばしばその期待は裏切られます。この詩篇作者の苦悩体験の告白は、そのことを物語っています。


3,社会的苦痛の中にいる人

 11節を見ると、作者の社会的苦痛とも言えることが書かれています。「愛する者や私の友も、私の病を避けて立ち、近親の者でさえ、遠く離れて立っています」。苦しみの中で、そばにいて支えとなってくれるはずの家族、親類、友だちからも見捨てられたということです(参照;ヨブ19:13〜19)。12節を続けて見ると、それらの仲間であるはずの人々、すなわち「愛する者」、「私の友」、「近親の者」が、逆に彼の「いのちを求める者」、「わざわいを願う者」となって敵対し、彼を苦しめにやって来ていると、読むことができます。
 これはヨブ記の流れに似ています。ヨブの友人たちは、苦難のどん底にいるヨブを慰め励ますためにお見舞いで来たはずに見えましたが、彼らが口を開くと、むしろヨブを攻撃し、弱っているヨブの心を痛めつけるのです。彼らの心無いことばに傷ついたヨブは彼らのことを「あなたがたはみな、人をみじめにする慰め手だ」(ヨブ16:2)と言い、「いつまで、あなたがたは私のたましいを悩ませ、ことばで私を砕くのか」(同19:2)と抗議しました。おそらく、詩篇38篇の作者も同様な苦しみを経験したのでしょう。
 この詩篇で興味深いことは、作者は神に対してはヨブとは異なり、この苦しみを神の御怒りとして受け取り、罪に苦しむのですが、他方、友人の非難や攻撃に対しては、決して承服しないという姿勢を保っていることです。それは「神との関係理解」の違いであると言えます。友人たちが敵となって責め立ててくる論理は、ヨブ記と同様に、罪を犯した者への報いとしての苦難があなたに起こっているという見方でした。確かに人間はその罪ゆえに、さまざまな苦しみに遭うことがあります。けれども苦難の中にあるとき、祈りの中で神に悔い改めたり、それを思い巡らすことは、その人自身と神との問題だからです。


4,慰めに満ちた神

 詩篇作者は、いつこの苦しみのトンネルから出られるのかが見えない状況の中で、祈って、祈って、祈り通したことがわかります。関根正雄氏は「詩人が全体として教理の神から生ける人格の神へと迫っている」(『詩篇註解』)と記しています。また、クレイギー氏も書いています。「祈るという行為そのものが、不治の病という状況の中で、論理を超え、現在の状況の証拠を超えて、神への深い信仰を明らかにしている。…彼が祈り続けるのは、すべての証拠を超えて、神が愛と憐れみをもっておられると信じ続けているからである。…祈るという行為は、…死すべき人生における命綱として機能する。」(『Word聖書注解 詩篇』)。
 パウロは言います。「神は、どのような苦しみのときにも、私たちを慰めてくださいます。それで私たちも、自分たちが神から受ける慰めによって、あらゆる苦しみの中にある人たちを慰めることができます。」(Ⅱコリント1:4)。詩篇38篇の「遠く離れて立ったり」、「人をみじめにする慰め手」とならぬために、心に留めるべき点は、キリストの父である「慰めに満ちた神」(同1:3)に思いをいつも向けることです。父なる神は、御子の十字架での受難を天から見つめ続けておられた方です。私は思うのです。十字架で苦しみのすべてを経験し、よみの世界、地獄のどん底まで落ちてくださったのは、キリストだけではなかった、きっと御父もその苦悩を舐め尽くされたはずです。