ヨハネの福音書 20:11ー18
礼拝メッセージ 2018.4.1 日曜礼拝 牧師:船橋 誠
1,小さき者にご自身を現されるイエス
マグダラのマリア
マグダラとは、ガリラヤ湖西岸の町の名前で、その町の出身ということで、マグダラのマリアと彼女は呼ばれました。聖書には、同じマリアという名前の女性が登場しますのでその区別のため、マグダラのマリアと呼ばれたのでしょう。イエスの母マリア、ベタニアのマリア、ヤコブとヨセフの母マリアなどです。
彼女は、イエスのガリラヤ伝道中、「自分の財産をもって…仕えていた」(ルカ8:1〜3)女性たちの筆頭に数えられていて、イエスに「七つの悪霊を追い出してもらった」と人として紹介されています。ルカ7:33の「罪深い女」と同一視する人もいますが、おそらくそうではなく、豊かな富をもった名家の婦人であったかもしれません。
「七つの悪霊を追い出してもらった」ということについて、聖書には具体的なストーリーが記されておらず、何もわかりませんが、「七つの悪霊」とは、たいへんひどい不幸や苦しみをもたらす悪霊の影響から(参考;ルカ11:26)、彼女が主の力ある御業によって癒され、解放が与えれたということでしょう。
マリアの主への愛
マリアは、この主の大いなる主の恵みを忘れることなく、深い愛情をもってイエスに従い、仕えていたのです。彼女の主に対する思いがよくわかるのは、十字架のそばにいたことからもわかります。弟子たちのほとんどは、イエスが十字架に架けられたとき、そばにはいませんでした。イエスの逮捕の中、彼らはイエスの仲間として迫害されることを恐れて、逃げてしまっていたのです。また、マリアは、主の埋葬まで付き添い、安息日が終わると、真っ先に遺体に香油を塗るために墓にかけつけました。本日の聖書箇所のところです。お墓から彼女は離れようとしなかったようです。日本の昔で言えば、尼となって生涯、菩提を弔う思いだったと言えます。
復活されたイエスは、そういう彼女に、一番最初に現れてくださったのかもしれません。十二弟子ではなく、マグダラのマリアというこの一人の小さき者に、主はご復活の第一目撃者の栄誉をお与えになったのです。
2,あなたの全存在を愛されるイエス
しかし、マリアがイエスを愛して慕っていた以上に、イエスのほうがもっとマリアを愛しておられたことを、この聖書箇所は私たちに語っています。復活のイエスは、彼女をその名前で呼びかけられました。この「マリア」という呼びかけは、彼女の全存在への呼びかけでした。主であられるイエスは、彼女がどんな人であるのか、そのすべてを知り尽くしておられます。神であられるお方として、イエスは彼女が生まれる前から、そしてどんな生涯を送ってきたのか、彼女の弱さも、恥も、痛みもすべて知っておいでになります。
復活の主イエスは、今も生きておられ、あなたの名前も呼んでおられます。このことは、私たちを恐れから平安へ、悲しみから喜びへ変えることができるものです。人間同士の愛は、たいてい条件付きです。「もし私の本当の姿を知ったら、私のことを誰も愛してくれないだろう」という恐れを抱きがちです。しかし、私たちの心の隅々、私たちの人生の丸ごとすべてを知っておられるお方が、全存在を受け入れ、すべてを赦し、深い愛をもって、私たちの名前を呼んでくださるのです。
3,うしろから呼びかけるイエス
墓に佇んで涙を流し続けるマグダラのマリアに、二人の御使いが現れます。その後、復活のイエスが直接に彼女に現れてくださいました。マリアはイエスのご遺体がないことに動揺し、「だれかが私の主を取って行きました」(13節)と訴えています。マリアは、人間の理解できる範囲だけで、イエスというお方を見ていたのです。自分を悪霊から解放してくれた偉大な人物としてのイエスを敬愛していたのです。彼女がこだわっていたものは、イエスのご遺体であり、偉大な人間としてのイエスでした。彼女の見ている方向は、墓の中でした(11節)。この墓穴は、屍の世界であり、死と滅びの領域でした。彼女もその死と滅びの支配の中に自らを置いて、理解しようとしていたのです。
15節でイエスご自身が、「だれを捜しているのですか」と問いかけています。これは核心を突く大切な問いです。あなたはイエスをどこに捜そうとするのか、あるいはイエスをどなたであると思うのか、ということです。マリアは、からだをかがめて墓の中をのぞき込んで、イエスを捜していました。しかし、その視線の先には、イエスはおられなかったのです。彼女のうしろから、彼女の見つめている反対方向から声がかけられます。「なぜ泣くのか、なぜ絶望しているのか、なぜ悲しみの中でとどまっているのか、なぜ墓の中で捜しているのか、マリアよ」とうしろから語りかけられます。「彼女はこう言ってから、うしろを振り向いた」(14節)、「彼女は振り向いて、ヘブル語で『ラボニ』…とイエスに言った」(16節)。マリアのしたとおり、私たちも回れ右をして、180度方向転換して、復活のイエスを見つめなくてはならないのです。
4,神との真の関係に導くイエス
17節でイエスがマグダラのマリアに伝えに行くように命じられたメッセージの意味を確認しましょう。「わたしの父であり、あなたがたの父である方」「わたしの神であり、あなたがたの神である方」という「わたし」だけでなく、「あなたがたの」父であり、神である方にという言い換えが、ここで伝えられる重要なことです。主イエスの十字架と復活は、弟子であるあなたがた、のちの弟子である私たちのすべてを含んで、この主の御業を通して、その関係性が大きく変わったとイエスは宣言されているのです。イエスが御父と持っておられた同じ距離感や深い関係性をもって、これから神は、「あなたの父」「あなたの神」となるということです。十字架と復活があなたを劇的に変えたと主は言われたのです。さらに、「あなたがたの父、神」という二人称複数形で言われるように、自分一人ではなく、信じる者たちの仲間がいる共同体として、互いに神の御前に、手を取り合って「私たちの父」と告白して生きることができるようになるとの約束です。