「私の耳を開く神」

詩篇 40:1ー 17

礼拝メッセージ 2023.11.26 日曜礼拝 牧師:船橋 誠


1,「滅びの穴、泥沼」にいた詩人

罪の落とし穴

 2節の「滅びの穴」や「泥沼」とは、私たちの信仰生活や人生においての危険を象徴しており、誰もが落ち込みやすい罠であり、落とし穴のことです。それが象徴するものとは、第一に「罪の泥沼」です。もしこの詩篇作者がダビデであったなら、彼はこの「滅びの穴、泥沼」のことを、自ら罪を犯したことの経験を踏まえて記したのでしょう。彼の犯した罪の話といえば、部下ウリヤの妻バテ・シェバに欲情を抱き、姦淫の罪を犯した出来事のことが思い出されます。
 ダビデは戦場からウリヤを呼び寄せ、その事実を隠蔽しようと謀るのですが、それが不調に終わると、今度は故意に彼が戦死するように仕向けました。それらの数々の罪が、ダビデをどんどんと滅びの泥沼の中へと向かわせ、霊的ないのちを衰弱させました。罪というものは、内なる欲望に端を発し、一つの罪の行動から、さらなる罪の深みへと陥らせ、下から下へと導いていきます。それが罪の恐ろしさです。
 悪いとわかっていてもやめられず、そこから抜け出すことのできない悪習慣というものも、同じように怖い泥沼です。もがけばもがくほど、下へ落ちて行ってしまうのです。それは依存性のある薬物のように、破壊的作用をして、徐々に人を蝕みます。パウロのように、こう叫ぶしかないでしょう。「私は本当にみじめな人間です。だれがこの死のからだから、私を救い出してくれるのでしょうか。」(ローマ7:24)。

落胆の沼

 もう一つの「穴、沼」が象徴しているのは、J.バニヤンが『天路歴程』で記している通り、「落胆の沼」ということです。人はその罪ゆえに、穴に落ち込むようなこともありますが、苦しみや厳しい状況に置かれ続けることによって、泥沼の中にいるような感覚を持つことがあります。『天路歴程』では、「キリスト者」という名の人物が、「滅びの都」から逃れ出て、旅を始めた最初に遭遇する困難が、「落胆の沼」に落ちてしまったことでした。同時にその沼に落ちた「柔順者」は、そのことをきっかけに御国を目指す旅路から脱落してしまいます。
 詩人もひどい苦悩を経験したようです。12節に彼が失望のどん底に落ち込んでいたことが読み取れます。「数えきれないわざわいが、私を取り囲んでいるのです。私の咎が襲いかかり、私は何も見ることができません。それは私の髪の毛よりも多く、私の心も私を見捨てました」。5節では、神の奇しいみわざと計らいは「あまりにも多くて数えきれません」と書いていますが、12節では、「わざわい」が数えきれないと叫んでいます。そして何よりも、心にズシッと、のしかかってくることばは「私の心も私を見捨てました」という独白です。これは、この人が、いかに深刻な絶望状況、苦しみのどん底に置かれていたかを示すものです。人は、さまざまなことの中で圧迫され、挫折、敗北、無力感、みじめさを継続的に長く経験するうちに、この詩人のことばのような思いになっていきます。


2,主を待ち望んで生きる詩人

神の日蝕現象

 しかし、2節後半から3節を見ると、詩人はそのような「滅びの穴、泥沼」から救出されたのです。その救出者が「主」なる神であり、だからこそ、彼は「私は切に、主を待ち望んだ」と冒頭で宣言しているのです。前篇の39篇7節には「主よ、今、私は何を待ち望みましょう」と問いかけがあります。こういう幾多の苦しみや不幸、災いに取り囲まれている中で、誰を待ち望めば良いのか、それがこの40篇全体において覚えておくべき第一のことです。詩篇も聖書全体も、その答えは、まことの「神」であると断言しています。しかし、この世界に生きていて、どこに「神」を見出だせるでしょうか。痛みや苦しみの中に、災いに取り囲まれて恐怖を抱く私たちに、神を求め続けることは可能なのでしょうか。
 聖書の時代や過去の歴史には神が見えていたかもしれないが、現代には見つけられないし、そもそもおられないのではないか、と考える人々もこの世には多くおられると思います。過去、欧米では思想家たちが「神は死んだ」と主張して、「神の死の神学」という神不在の世界観が広まりました。しかし、ユダヤ人哲学者マルティン・ブーバーは、神は現代にもおられるし、存在することをやめた訳では無いと明言し、その上で、現代に神が見えにくい事象のことを「神の蝕」と表現しました。「神の蝕」とは、太陽の光を月が遮ることによって起こる日蝕のように、神はずっと光り続けておられるが、神と私たちとの間に、月のような障害物が入ることによって、その光が見えなくなっているというのです。その障害物は、自己肥大化した人間の自我ということでした。ブーバーが指摘する大切な前提は、現代の私たちが神は見えないと感じることがあっても、神は確かにおられるし、きのうも今日も変わることなく、私たちを愛と真実の光で照らし続けておられるということです。

祈れ、告白せよ

 ですから、「滅びの穴、泥沼」にはまっている人はみな、すぐに主に向かって祈らなくてはならないのです。そのための緊急の祈りがこの詩篇には残されています。それが13節から17節です。この内容は、そっくりそのまま独立した詩篇である70篇として別に掲げられています。それが意味することは、「主よ、私を救い出してください。主よ、私を助けてください」と、誰もがいつもそう叫ぶように促されているということです。詩篇記者のごとく、私たちも祈り続けるのです。
 ヒッポのアウグスティヌスが記し、今日最も有名な著書は『告白』(あるいは『告白録』)です。私たちは「告白」と言えば、恋する人に想いを伝えることや、黙っていた秘密や心にあることを人に伝えることをイメージします。けれども、この『告白』は邦訳で約500頁ありますが、彼が誰に告白しているのか、誰に向かってこれを書いているのかと言うと、彼の弟子でも家族でもないのです。これは彼がひたすら神さまに向かって語っていることばとなっているのです。私たちも神さまに告白できるのです。主への思いを、考えていることを、経験したことを、悩みや苦しみのすべてを日々告白して生きることができるのです。

私たちの味方である方

 もう一つのことは、6節から8節は、ヘブル人への手紙10章5節から7節に引用されていることです。しかも、そのことばはキリストのことばとされています。とすれば、この6節から8節は、主がこの罪に満ちた世界に来られたことの御思いを表現していることになります。確かにボンヘッファーは「詩篇はキリストの祈りである」と記しています。キリストが私たち人間の兄弟、私たちの味方となって、滅びの泥沼でもがき苦しんでいる私たちを救うために、ご自身を十字架の上で献げてくださったことを証ししていることをここに見ます。ヘブル人への手紙はその引用の後、こう記します。「このみこころにしたがって、イエス・キリストのからだが、ただ一度だけ献げられたことにより、私たちは聖なるものとされています。」(ヘブル10:10)。