ローマ人への手紙 1:1ー7
礼拝メッセージ 2017.3.5 日曜礼拝 牧師:船橋 誠
前回は、差出人であるパウロの自己紹介的な内容を見ました。彼は、自分を指して、キリストの奴隷、召された使徒、選び分けられた者、であると書きました。何のためにそのような者とされているのかと言えば、「神の福音のため」であると言うのです。神の福音のために、彼は、神のしもべ、仕え人(minister)になったのです。1〜7節を見れば、パウロが訪問したことのないローマ教会の人たちに、何者であるのかを知ってもらうため、自分のことを語っているはずですが、自分を語るために、どうしても語らねばならない、いやむしろ語らずにはおれないことを、最初から書いてしまっています。それが「神の福音」です。自分と福音とが一体化していて、自分を語るとき、福音を切り離して語ることができないのです。まさしく福音化された存在として、パウロは生きていました。
1,神の福音は、聖書(歴史)を通して示された来たものです(2節)
「福音」とは良き知らせ、グッドニュースですが、特に「神の福音」(1節)とわざわざ「神の」という語が付いていますように、天地万物の創造主、神からのものであって、人間が生み出した思想でも、道徳律や原理でもありません。
昔も今も、いろいろな福音、異なった福音というものがあったし、今もあると思います。幸せを与えてくれるもの、人生に喜びや新しい価値を与えてくれるもの、良き知らせや教え、良き方法や手段等が生み出されて来ましたし、それが宣伝され、その時代の人々を魅了し、ある範囲において流行したかもしれません。でも、結局はそれが「神の福音」でなければ、人間の、一時的で頼りにできないものであり、真の福音ではありません。ガラテヤ1:11−12に「私が宣べ伝えた福音は、人間によるものではありません。私はそれを人間からは受けなかったし、また教えられもしませんでした。ただイエス・キリストの啓示によって受けたのです。」とあるとおりです。
神の福音であるからこそ、パウロはどうしても人々に伝えたかったのです。2節に「この福音は、神がその預言者たちを通して、聖書において前から約束されたもの」と書いています。福音というものは、長い歴史の中で、多くの預言者たちを通して示されて来たメッセージでした。人間に与えられた一時的なアイデアやひらめきとは違い、長い長い気の遠くなるような歴史の中、時代の風雪に耐え、消えることも廃れることもなく、存在して輝き続けた、確固たるもの、決して揺れ動くことのない神の言葉なのです。
しかも福音は、「約束」です。神が人に与えられた契約です。契約というものはたいへん重い性質のものです。神が私たちと結んでくださった永遠に変わることのない、影響を与え続ける契約です。
2,神の福音は、御子イエス・キリストについてのものです(3〜4節)
福音は「御子に関すること」(3節)なのです。イエス・キリストという一人の人物に集中されていくものです。ですからキリストなしに福音とはなり得ないし、福音を知りたい人、得たい人はキリストのもとに来なくてはなりません。ダイレクトに表現すると、福音とは、キリスト・イエスです、ということになりますし、人格的なものと言えるでしょう。
3−4節で「肉によれば」、「聖い御霊によれば」と語り、キリストについて述べています。「肉によれば」というのは、イエス・キリストの人間としての側面の説明です。彼は「ダビデの子孫として」生まれた方です。架空の人物や想像上の英雄ではなく、歴史的実在の人間として現れ、生きた人であったのです。あるいは、旧約聖書で預言され約束されたとおりに、この世界に来られた方でありました。
同じように「聖い御霊によれば」とは、信仰の目によって理解できる側面です。新約聖書で明らかなように、キリストはよみがえられた方です。そのことにより、神の御子であることが明確にされました。「御子」という言葉は、原語では単に「子」や「息子」という意味です。ここにも、福音と同じように「神の」という語が付いています。誰の子どもかと言えば、神の子であるのです。そこにキリストの神性(神の性質)が明らかにされています。
パウロは自分の願いを次のように記しています。「私の願いは、世を去ってキリストともにいることです」(ピリピ1:23)。彼にとって、イエス・キリストは、心から愛し、従うべき、言葉にできないほど、すばらしいお方でした。この方に愛され、導かれ、守られていることを実感していました。福音ということを考える時、このことは重要です。なぜなら、福音を信じると、御子キリストとの愛の関係に入れられるからです。たとえば、いくら儒教に熱心だからといって、私の願いは、この世を去って孔子とともにいることですとか、仏教徒の方が、世を去って釈迦とともにいたいという願いは聞いたことがありません。ここに、福音というものの際立った性質が明らかにされているといえるでしょう。
3,神の福音は、すべての人たちを信仰の従順へと進ませます(5〜7節)
「信仰の従順」と言っても、ピンと来ない言葉かもしれません。私は、これは理屈抜きに、信仰の実践と考えれば良いと思っています。信仰の従順とは、文字通りキリストに従うことです。王であるキリストに従って歩むことが、福音の目的です。ですから、よく言われるように、聖書知識や神学的知識が豊富にあったとしても、もしその人がキリストに従っていないのであれば、それは福音に生きていることにはなりません。
最後に、神の福音は誰のためのものか、誰に差し向けられているか、ということについて確認しましょう。聖書は「あらゆる国の人々」(5節)と書いています。パウロは宛先のローマの教会の人たちに対して、「あなたがたも、それらの人々の中にあって、イエス・キリストに召された人々です」(6節)と書いて、あなたがたも神の愛の中に生かされ、召された人たちであることを示して、感謝を捧げています。信仰の応答は各自が神とのつながりを持って行うことですが、福音を信じるということは「あなたがたも、それらの人々の中にあって」とあるように、信じる者たちの交わりの中に置かれ、キリストに召されたことを、ともに喜び、ともに歩む一人一人となることなのです。