「福音化された人間①」

ローマ人への手紙 1:1ー7

礼拝メッセージ 2017.2.26 日曜礼拝 牧師:船橋 誠


 今回から、福音の真髄が説かれている「ローマ人への手紙」を見ていきたい思います。かつて書かれたものの中で最も偉大な書物と呼ばれ、内村鑑三は「この書ありしため、地球の表面は幾度も改造せられた」(内村鑑三著「ロマ書の研究」p.19)と語りました。アウグスティヌスも、マルティン・ルターも、ジョン・ウェスレーもこの書によって、信仰の目が大きく開かれました。ルターは「これこそまさに、キリスト者が一字一句暗記するばかりでなく、魂の日ごとのパンとして毎日これと関わるに相応しく、またその価値あるものである。この手紙は読まれ過ぎるということ、考察され過ぎるということのあり得ないもの」(「ルター著作選集」p.361)とも言っています。
 では、この書がいったいどんなに大きな書物かと見れば、全部で16章、節数が433からなる、比較的小さな書であることがわかります。新改訳第三版で見ると、全部で27ページ、文字数が約25,400字(ギリシア語ネストレ28版では27ページで約7000文字)に過ぎません。けれども内村鑑三が言うように、これら一文字一文字が磨かれた大理石のように積み上げられ、福音の真理を示す、一大建築物のようにそびえ立っているのです。
 タイトルとして、「福音化された」という表現を使いましたが、神の福音にとらえられ、人生が丸ごと変わってしまった人間として、使徒パウロのことを見ていきます。しかし、福音化された人は、実はパウロだけではなく、この書の宛先のローマ教会の人たちをも含んでいます。そして現代の読者である私たちも、同じ真理によってすでに福音化されているか、あるいは福音化されている途上にある者です。


1,「キリスト・イエスのしもべ」として生きる幸い

 1節は、日本語の訳では、意味を通りやすくするため「神の福音のために…」と始まっていますが、原文の順序通りに並べるとそのほとんど逆で「パウロ、しもべ、キリスト・イエスの、召された使徒、選び分けられた、福音のために、神の」となります。その順番で行くと、パウロはまだ行ったことのないローマの教会に自己紹介するにあたって、最初に「パウロ、しもべ(奴隷)」と書いたことがわかります。意表をつくような自己紹介です。
 このわずか1節の中に、パウロという人物の自己理解が明確にされています。彼は、第一に、私はしもべである、と書き始めました。ここに彼の驚くべき謙遜さが表れていると言われています。自分は主人でも王でもない、しもべなのですと言います。このことに合わせて言えば、「パウロ」という名前も、元々、彼はユダヤの名前は「サウロ」(求められる者)だったのですが、そう名乗らず、ギリシア的な名前で「パウロ」と言っています。「パウロ」とは、小さいものという意味です。
 「しもべ」は、主人のために奉仕する者であり、命じられたとおりに行動せねばならない者でした。人間扱いされず、家畜のように扱われる場合もありました。しかし、旧約聖書のヨセフのように、主人から家の管理一切を任されるようなしもべや、子弟に教育をするようなしもべもいました。問題は、誰のしもべであるのか、ということだと思います。これがパウロのアイデンティティーだった訳ですが、彼は「キリスト・イエスのしもべ」との自覚をもって歩んでいたのです。彼の主人は、他の誰でもなく、キリストただおひとりでした。このパウロの自己理解を思うとき、私は誰のしもべとして生きているのかを考えさせられます。この書の6章には「罪の奴隷」「不法の奴隷」(6:16〜23)という言葉が出て来ます。もっとわかりやすい例で言えば、お金の奴隷、欲望の奴隷、権力の奴隷となっていないかと言うことが、問われています。自分は誰の奴隷にもならないし、なったこともないと多くの人は思うかもしれません。でも、自覚することがなくても、自分中心に歩むそういう人のことをかえって、聖書は「罪の奴隷」であると指摘するのです。
 あるいは、この「しもべ」というのは、モーセやダニエルのような旧約聖書に記される「神のしもべ」というタイトルと同様に理解することもできます。いずれにせよ、「しもべ」という語は、一見、ネガティブな印象を与えかねない表現なのですが、パウロは「キリストのしもべ」として生きていることの幸いを、このローマ書全体で明確にしています。この方のしもべとして生きることがどんなに嬉しく、幸いなことかを生き生きと教えるのです。


2,「使徒」(遣わされた者)として生きる力

 第二にパウロは、自分が「使徒」であると言います。「使徒」とは、ある種の権限を、王や上位の者から委ねられて派遣される人、その権限を行使していく人のことです。新約聖書の「使徒の働き」を通してわかることですが、パウロが「使徒」であるとの自己理解を持ったのは、ダマスコの途上で、復活のイエスからの啓示を受けた出来事にありました(使徒9章、22章、26章)。パウロは、十二弟子のように、イエスの公生涯中に彼とともに過ごす経験はなかったのですが、復活の主から直接に「異邦人への宣教」を委ねられた人でした。私たちも、パウロの召命と全く同じではないにしても、神の福音を受けて歩む一人一人は、遣わされた者としての大切な使命を負っているのではないでしょうか。でも、これは担い難い苦しい重荷ではなく、喜びや生きがいを生む使命です。今、置かれた場所を宣教地として証しするのです。


3,「神の福音のために選び分けられた」者として生きる喜び

 第三に、パウロは、自分のことを「神の福音のために選び分けられた」者であると言います。アンテオケ教会で聖霊の声がありました。「バルナバとサウロをわたしのために聖別して、わたしが召した任務につかせなさい」(使徒13:2)。この「聖別して」と、「選び分けられた」という言葉は原語では同じ単語です。神は、パウロを、そして私たちを、神の福音のため、特別に選び分けて、大切に取って置いたのです。「なぜ、私なのですか」と尋ねたくなりますが、しかし、主は言われます。あなたを「選びの器」としたと。「わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命した」(ヨハネ15:16)と主イエスは言われます。神はあなたを選び、あなたに期待しています。そしてあなたを選んだことを決して後悔しておられないと思います。「主は喜びをもってあなたのことを楽しみ、その愛によって安らぎを与える。主は高らかに歌ってあなたのことを喜ばれる」のです(ゼパニヤ3:17)。