「福音は神の力」

ローマ人への手紙 1:14ー17

礼拝メッセージ 2017.3.19 日曜礼拝 牧師:船橋 誠


1,ぜひ福音を伝えたいのです(14−15節)

福音を宣べ伝えたい!

 ローマ人への手紙を、最初から読んでいて感じることは、筆者パウロの一途さです。彼は、本当に福音一筋の人でした。差出人である自分のことを語る際にも、書いている内容は福音でしたし、この手紙全体の内容も、結局は、すべて福音が語られているような気がします。15節では、「ぜひ福音を伝えたい」と書いています。「私にとっての熱望は」あるいは「私の切なる願いは」と訳すこともできます。熱烈な思いがパウロの心の中心に燃えていたのです。10節以降の文章では、「願っている」とか、「切に望む」とか、「〜したい」というような、強い願望を表す言葉が並んでいます。

世界に対する負債

 そして14節は、さらに強い響きが感じられます。「返さなければならない負債を負っています」となっています。原文の表現では、「私は負債者である」「私には義務がある」等とも訳せます。負債というと、願望を超えて、絶対にそうしなければ許されない、絶対にしないと罰せられるというような、脅迫観念のような印象を受けます。福音をいただいたものは、福音の絶大な価値を知っているので、それを伝えずにはおれないし、むしろ伝えないことは大きな罪であるかのように思います。福音を伝えるということは、とても嬉しく楽しいことであるのですが、同時に、極めて重大な告知なので、どうしてもしなくてはならない義務であり、責任でもあるということです。では、パウロが福音を宣べ伝えることに、それほどの激しい気持ちを持っていた理由は、いったい何だったのでしょうか。次にその理由を見ていきましょう。


2,福音を恥とは思いません(16節)

 「私は福音を恥とは思いません」という言葉は、強い確信を感じさせます。文語訳のように「我は福音を恥とせず」と言ったほうが良いかもしれません。福音を恥としない、とは福音を誇りとしていると言い換えられますが、そう表現しなかったのは、福音を恥としてしまうことが、誰でもあるからではないでしょうか。パウロのように福音宣教に強い願いを持っていないのは、その恥の感覚から来ているのかもしれません。帝国の中心、ローマにいたクリスチャンたちも、辺境の地ユダヤ地方で起こった旧約聖書の歴史や、ユダヤ人イエス・キリストの話を真顔で語り伝えることは、時に恥ずかしい気持ちになったり、少数者ゆえの心細さを持つこともあったと思います。
 新約聖書には、福音を聞いた人々の反応もさまざまで、あざ笑う人々もいたり、気が狂っていると言った人がいたことも書いています(使徒17:32,26:23−25など)。しかし、イエスご自身が厳しくも、こう言われています。「このような姦淫と罪の時代にあって、わたしとわたしのことばを恥じるような者なら、人の子も、父の栄光を帯びて聖なる御使いたちとともに来るときには、そのような人のことを恥じます」(マルコ8:38)。姦淫と罪の時代であればこそ、福音を恥としてはならないのです。福音を恥じずに生きることの大きな秘訣は、福音の素晴らしさをよく知ることにあると思います。福音の本当の力に触れたら、恥じるどころか、語りたくて仕方がないようになります。


3,福音は救いを得させる神の力です(16節)

 「福音は、ユダヤ人をはじめギリシャ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力です」。神の力の「力」は、ダイナマイトの語源となったギリシャ語が使われています。信仰生活の中で、時々感じることは、この世界で、本当の強さとか、すごい力といったことを、どんなことの中に見たり感じたりするかというと、私は、人間の心を変えたり、動かしたりする力であると思います。福音が宣べ伝えられて、人が暗闇から光へ、死からいのちへと移っていくとき、神の力が、いかに大きなものであるのかを感じます。同様に、主キリストの復活のうちにも、その力の大きさを見ます。死んでいる者がよみがえる、これほど大きな力は存在しません。死んだ肉体に、どんな種類のエネルギーを大量に注ぎ込んでも、到底、生き返らせることはできません。不可能を可能にされる、それが神の絶大な力です。福音は、信じる人々を救いに至らせるという、驚くべき偉大な神の力なのです。


4,福音のうちに神の義が啓示されています(17節)

 「神の義」とは、神の正しさです。神が正しいお方であるということ、それは神の聖さや、正しい裁きをも含んでいます。そして義とは、関係概念であると言われるように、神の義は、神と人間との正しい関係や位置を求めるものなのです。人が終末において、神の御前に立てられて裁かれる時、神から自分は義であると宣言され得るかどうかを、「神の義」という言葉は考えさせます。今ばかりに目がいき、将来のこと、遠い未来の裁きのことなど考えるのは、無駄で愚かなように見えるかもしれませんが、聖書の語る壮大な救いのストーリーは、そのことが今を生きる点で、実に重要なことであることを示しています。
 「その義は、信仰に始まり信仰に進ませるからです。義人は信仰によって生きる」とあります。ここで「義」と「信仰」とのつながりが示されています。神が、罪ある人間をどのように取り扱われ、導かれていくのか、神が正しいのであれば、罪を犯す者たちを裁いて、罰するのだろうか、などのことです。もし神が正しい者に報いを与え、悪い者を罰するだけであるならば、この世界は、最終的には、神の裁きによって、みな滅ぶだけです。でも、そうではなく、神の義は、「信仰に始まり信仰に進ませる」というのです。この「信仰」は、人間が持つ神への信仰だけを言うのではなく、神の真実性、忠実さを含んでいるというのが、最近の聖書理解です。神の義は、神の信実から、人間の信仰へと進ませて、その正しさを明らかにしていきます。神がその御子によって成就し、表してくださった福音を、信仰の従順を通して、それに応えて生きる、そこに今を、活き活きと生きることのできる道があります。神の正しさを知って生きる者は、神の信実というところから、その人生を真の意味で、生き始めることができるのです。