「神を待ち望め」

詩篇 42:1ー11

礼拝メッセージ 2017.2.12 日曜礼拝 牧師:船橋 誠


 「鹿が谷川の流れを慕いあえぐように、神よ。私のたましいはあなたを慕いあえぎます」(1節)と、美しい映像が眼前に広がるような表現で始まるこの詩篇は、人間の内なるたましいに存在する渇きや欲求について気づかせて、私たちを生ける神への信仰へと導く歌となっています。
 表題の「コラの子たち」とは、コラとその子孫のことです。彼らはレビ族で、神殿で賛美奉仕をする人たちでした(Ⅰ歴代6:22)。「マスキール」は教訓詩の意味であると言われています。詩篇全体の第二巻の冒頭に置かれたこの詩篇は、続く43篇と元々一つであったようです。カルヴァンは、この詩篇は、ダビデがサウル王に命をつけ狙われていたときに、ダビデが書いたものであるとしています。また、現代の学者たちは、バビロンで捕囚状態にある民の誰かが書いたと想像しています。しかし誰が書いたとしても、この詩篇の示す人間理解の洞察の深さは、神によって与えられたものとしか言い様がないように感じます。


1,人間のうちにある霊的な渇き

たましいの渇き

 この詩篇は言います。「私のたましいは、…渇いています」と(2節)。のどが渇いているのに水を飲むことができないことは、本当に辛いことです。渇きを覚えた鹿が水を求めて谷川へと降りてくるのですが、水が涸れてしまっています。少しでも水がないかと探し求めて、あえいでいます。どうもそんな情景を表しているようです。「谷川の流れ」は乾季になると干え上がってしまった川床のことで、「涸れた谷」(新共同訳)なのです。
 詩人のたましいも精神的に渇いていて、潤いを求めています。人間は誰でも、この詩篇のように渇いているのではないでしょうか。自分の涙を糧(3節)とするような、言いようのない悲しみや痛みを経験したり、あるいは7節のような、怒涛のように押し寄せてくる災いや苦難に陥っているとき、私たちの心はうなだれ、思い乱れてしまいます(5,11節)。

渇きを癒やすことのできない偽の代替品

 人は渇きを癒やそうとして、さまざまな方法でそれを試みます。ヨハネの福音書4章にイエスが「サマリヤの女」と会話され、真理に導かれていく話があります。彼女の渇きを満たす手段は、おそらく恋愛や男性との関係でした。この男性でダメだったら次の男性と繰り返していたのでしょう。でも、結局は、幻滅し、渇いた心を満たされないばかりか、渇きがより一層ひどくなってしまっただけでした。世に言う依存症と名づけられる多くのものが、渇きを癒やすことのできない不完全な偽の代替品を求めた結果であるのかもしれません。吸血鬼ドラキュラに血を吸われた人は、自分の血を吸ってもらおうと、その後も自分の首を差し出し続けるのです。恐ろしいことに不完全な偽の代替品は、その人を食い尽くし、滅ぼしてしまうまで離してくれません。しかし、イエスは言われます。「わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。」(ヨハネ4:14)。


2,信仰者に生じる霊的な渇き

 詩人は、自分の渇きを癒やすことのできるものが何であるのかを明確に自覚していました。私を満たすことのできる唯一の方は、まことの神であると知っていました。ところが、彼は渇いていました。その理由を示唆する言葉が6節にあります。「ヨルダンとヘルモンの地から、ミツァルの山から私はあなたを思い起こします」。彼は今、エルサレム神殿で礼拝を捧げることができない地理的状況にありました。どうしてそうなったのかはわかりません。地理的距離が、心理的距離にも影響を与えました。神の存在が遠くなり、敵対する人たちから「おまえの神はどこにいるのか」と嘲られて、苦しんでいたのです。神の臨在感を失ってしまったのです。この詩人の信仰経験は、誰にでも起こり得ることであると思います。信仰があるはずなのに失望し、暗い気持ちで歩むことが信仰者にもあります。新生(ボーン・アゲイン)という、人生一度きりの経験だけをもって、その後のすべてを解決できるはずだと考える必要はなく、むしろ信仰者は絶えず神とともに歩むというプロセスの中で充足されて行く、という視点が必要です。


3,霊的な渇きを充足へと向かわせる道

自分の心を見つめる(5,11節)

 この詩篇が教える、霊的渇きを充足へと向かわせる道について見ましょう。繰り返される5,11節(43:5)で、詩人は「わがたましいよ。なぜ、おまえはうなだれているのか。私の前で思い乱れているのか。」と自らに問いかけています。第一ステップは、自分の心を見つめることです。肉体の健康は定期健診を受けることができますが、自分のたましいについては、どうでしょうか。内なる自分が、どんな状況にあるのかを真っ直ぐに見つめることから、真の祈りが生まれると思います。「床の上で自分の心に語り、静まれ」(詩篇4:4、参照;詩篇139:23−24)。

神との関係を見直す

 第二のステップは、神ご自身を慕い求めることです。この詩篇では、神への呼びかけを3つの言い方で表現しています。最初は、「生ける神」(2節)です。見えず、感じられないことがあっても、確かに生きておられる神であると信じて、告白します。次に、「私の神」(6節)です。「私の」と付けることで、神との距離が縮まっている印象を受けます。私を愛し、人生に関わり、働いてくださる神として、見上げるのです。第三に、「わが巌の神」(9節)と詩人は呼びました。「巌」とは「岩」のことです。私は不安定でよろめくことがあっても、私の神は、何があっても決して揺らぐことのない、堅く確かなお方として、神を認めることです。

主によって結ばれている人々とともに礼拝する(4節)

 最後に、詩人が行ったもう一つのことは、エルサレムで神の民として礼拝して祝った日々を思い出すことでした。主にあって結ばれている人たちとともに、神をあがめて礼拝することが、私たちのたましいの渇きを癒し、引き上げていくことにつながります。