詩篇 22
礼拝メッセージ 2016.4.22 日曜礼拝 牧師:南野 浩則
嘆きの詩
この詩篇は,前半部は嘆きの歌となっていて,後半は神を賛美し,神の支配を歌う詩篇となっています。詩篇著者は神によって見捨てられたと嘆きます。言葉としては,その理由を問う形になってはいますが,もちろん理由を神に尋ねているのではありません。神によって捨てられた状況の厳しさや,それに納得できない自分がいるのです。
神は遠い存在となってしまいました。手の届かない,その救いが自分には及ばないのです。神に問いかけても,神に救済を求めても,神は沈黙を守ります。神は人間に律法・聖書や他者(預言者や祭司)を通じて意思を伝えると詩篇著者は信じていたでしょうが,その神は救いを実現する段階で沈黙したままです。
ここで神のかつての姿,詩篇著者の先祖たちに神が注いだまなざしや救いを語ります。しかし自分の現実は,イスラエルの先祖たちとは程遠いように思われます。敵は詩篇著者を軽蔑の的にし,その罠から逃れることはできないのです。
人々は詩篇著者を嘲るだけでなく,その神をも嘲笑します。古代では,人間の戦いは同時にその人間たちが信じている神々の戦いであり,敗れた側の人間の神は劣っている神々とされました。詩篇著者はイスラエルの神であるヤハウェ(主)に頼る者ですが,敗れてしまった詩篇著者はヤハウェの敗北という現実に向き合わなければならないことになります。神が詩篇著者を見捨てたとは,主である神が救ってくれないという現実以外に,神は力ないものであるかもしれないという疑いや現実にさいなまれることを意味しています。
絶望の詩
内容は分かりませんが,詩篇著者が非常に厳しい状況に置かれ,神にあっても絶望の言葉を吐いています。神の救いがありません,神の沈黙は絶望です。しかも,イスラエルの先祖たちは神によって救われたと詩篇著者は聞かされていました。その神を信じているのに,その神は詩篇著者(私)には救いとはなりません。この思いは私たちも経験するでしょう。忠実に聖書を読み,祈り,神を礼拝しているのに,自分の生活が思い通りにはうまくいかないと思わされることがあります。神を信じているはずの私が,なぜ祝福されないのでしょうか? 私だけがつらい目に合うのでしょうか? 人は信じられる存在でしょうか? 人に裏切られるのかも知れません? それに対して答えを見つけられないというのが,この詩篇の語るところでしょう。どこに私たちの希望を見出すことができるのでしょうか?
希望の詩
イエスは十字架の苦しみとしてこの詩篇を叫びました。イエスは肉体的な苦しみや人から捨てられた苦しみだけでなく,救いを期待した神から見捨てられた苦しみも経験しました。ある人たちは,イエスが叫んだこの詩篇の最後が神の賛美に終わるので,苦しみにあってもイエスは神を賛美していると解釈します。しかし私はその意見に賛同しません。やはりイエスは死への絶望が残されていただけと考えています。イエスは神に従いきりました。信仰を正しく持つ者が神の祝福を得ると考えるとするならば,イエスがまずそのような祝福に浴するべきです。ところが十字架の結末はそうではなかったのです。イエスは神によって見捨てられました。神は恵みを与える機械(自動販売機)ではありません。私たちが忠実な思いや態度を神に示せば,神はそれに応じて私たちが期待する祝福を与えてくれるのではないのです。
聖書によれば,神は人間を見捨てはしません。詩篇22も最終的には同じことを語ります。見捨てるのは神ではなく,実は人間の方です。人が神に絶望し,人が神を見捨てるのです。イエスはユダヤ人たちの陰謀によって捨てられましたが,それは(皮肉なことに)イエスが神に従いきったことによります。神の意志を行うことが,ユダヤ人権力者の基盤を奪うことに繋がることだからです。命を救う神に逆らい,滅びを選ぶのは神ではなく人です。
人を見捨てない神をもう一度見出だしたいのです。沈黙しているように思える神に,耳を澄まして聴きたいのです。そして神に信頼する生き方,神と人とを大切にできる人生を選びたいと思います。神が大切にしているものを大切にできる人生を選びたいと思います。その結果が不利益と見えても,人から理解を得られなくとも,神の求めに応じる人生を送り,またそれを分かち合える人生を経験したいのです。