「神よ、なぜですか?」

詩篇 22:1-8

礼拝メッセージ 2019.4.14 日曜礼拝 牧師:南野 浩則


 この詩篇は「暁の雌鹿」という曲の替え歌のようです。長い詩篇で、前半部と後半部の調子(トーン)が大きく変わっています。詩篇著者は神によって見捨てられたと嘆きます。言葉としては,その理由を問う形ではありますが,もちろん理由を神に尋ねているのではありません。神に捨てられた状況の厳しさや,それに納得できない自分がいるのです。


遠く、沈黙する神

 神は遠い存在となってしまいました。その救い(助け)は自分には及びません。神に問いかけても,神に救済を求めても,神は沈黙を守ります。祈りや願いに応えない神は沈黙の神です。ここで神のかつての姿,詩篇著者の先祖たちに神が注いだまなざしや救いを語ります。イスラエルの先祖たちが神に頼めば,人々は危機的状況から逃れることができました。それは同時に,イスラエルの先祖たちは敵方からバカにされたり罵られたりすることがなかったことを意味していました。神が働いている限り,敵方がイスラエルをいやしめることはなかったのです。
 しかし自分の現実は,イスラエルの先祖たちとは程遠いのです。自分を虫けらと呼んでいますが,多分,敵方の罵りの言葉を自虐的に自分にあてはめた言葉でしょう。


神への嘲笑

 人々は詩篇著者を嘲るだけでなく,その神をも嘲笑します。古代では,人間の戦いは同時にその人間たちが信じている神々の戦いであり,敗れた側の人間の神は劣っている神々とされました。詩篇著者はイスラエルの神であるヤハウェ(主)に頼る者であるが,敗れてしまった詩篇著者はヤハウェの敗北という現実に向き合わなければならないことになります。神が詩篇著者を見捨てたとは,主である神が救ってくれないという現実以外に,神は力ないものであるかもしれないという疑いや現実に苛まれることを意味していたでしょう。


現実の厳しさ

 詩篇著者が非常に厳しい状況に置かれ,神にあっても絶望の言葉を吐きます。神の救いがない,神の沈黙は絶望です。しかも,イスラエルの先祖たちは神によって救われたと詩篇著者は聞かされていました。その神を信じているのに,その神は詩篇著者には救いとはなりません。この思いは私たちも経験します。私たちは,教会の教えと現実とのギャップに苦しむことがります。神を信じているはずの私が,なぜ祝福されないのか? 私だけがつらい目に合うのか? 人を信じられないのか? 人に裏切られるのか? それに対して答えを見つけられないというのが,聖書の語るところです。私が神に対して,教会の教えに対して忠実であるから,私は祝福されるのだということは神の約束ではなさそうです。では,どこに私たちの希望を見出すことができるのでしょうか?


神の恵み

 イエスは十字架の苦しみとしてこの詩篇を叫びました。イエスは肉体的な苦しみ,人から捨てられた苦しみだけでなく,救いを期待した神から見捨てられた苦しみも経験しました。ある人たちは,イエスが叫んだこの詩篇の最後が神の賛美に終わるので,苦しみにあってもイエスは神を賛美していると解釈します。一方では、イエスは死への絶望が残されていただけと考えられています。イエスは神に従いきった方です。信仰を正しく持つ者が,私たちが考えるような神の祝福を得ると考えるとするならば,イエスがまずそのような祝福に浴するべきだったでしょう。ところが結末はそうではありませんでした。イエスは神によって見捨てられたのです。神は恵みを与える機械(自動販売機)ではありません。私たちが忠実な思いや態度を神に示せば,神はそれに応じて私たちが期待する祝福を与えてくれるのではありません。
 聖書によれば,神は人間を見捨てはしないのです。詩篇22も最終的には同じことを語ります。見捨てるのは神ではなく,人間の方です。人が神に絶望し,人が神を見捨てるのです。イエスはユダヤ人たちの陰謀によって捨てられましたが,それは(皮肉なことに)イエスが神に従いきったことによります。神の意志を行うことが,ユダヤ人権力者の基盤を奪うことに繋がることだからです。命を救う神に逆らい,滅びを選ぶのは神ではなく人です。
 人を見捨てない神をもう一度見出だしたいと思います。沈黙しているように思える神に,耳を澄まして聴きたいのです。そして神に信頼する生き方,神と人とを大切にできる人生を選びたい。神が大切にしているものを大切にできる人生を選びたい。その結果が不利益と思えても,人から理解を得られなくとも,神の求めに応じる価値ある人生を送り,またそれを分かち合える人生を経験したいのです。