「神はわれらの避け所」

詩篇 46:1ー11

礼拝メッセージ 2019.8.11 日曜礼拝 牧師:船橋 誠


1,神は私たちの避け所であり、力であると告白しよう

神はいつでも苦難の中にいる私たちを助けようと備えている

 「神はわれらの避け所、苦しむときそこにある強き助け。それゆえわれらは恐れない」。このみことばによって、私を含めてこれまでいかに多くの人たちが神の恵みと力強い励ましを受けて来たことでしょうか。詩篇46篇と言えば、宗教改革者M・ルターを思い浮かべる人が多いと思います。彼が宗教改革の厳しい戦いの中で常に心に覚えて、愛した詩篇として知られています。恐れと不安の中に置かれていた時、同労者のフィリップ・メランヒトンに向かって「さあ、フィリップ。詩篇46篇を歌おうではないか」と語りかけました。このあと歌う新聖歌280番「神はわがやぐら」は詩篇46篇をもとにルターが作った有名な賛美歌です。1節を見ましょう。「神はわれらの避け所」と書いています。「避け所」という表現は、文語訳聖書からの伝統でそう訳されていますが、別の表現で言えば、「逃れ場」(フランシスコ会訳、松田伊作訳)、英語訳でrefugeやshelter(ともに避難所や隠れ家の意)と訳されています。新改訳聖書の脚注にありますように、この「われらの避け所」の「われらの」は、「われらにとって」を意味すると書いていますが、もっと明確に言い表すと、これは「われらのための避け所」というのが直訳です。私たちのためにいつも備えられている、24時間常に準備されている「逃れ場」であるということです。1節後半の「苦しむとき そこにある強き助け」ですが、この「苦しむとき」というのも、厳密に言えばこれは複数形で記されているので「いろいろな苦難や危機の中で」という意味です。人生において苦難のときは、一度きりのものではなく、次から次にさまざまな憂いが私たちの心を圧迫し、希望を萎ませてしまいます。しかしその度毎に私たちは神の懐へ飛び込み「神はわれらの避け所、苦しむときそこにある強き助け。」と告白することができるのです。「そこにある強き助け」という表現も私たちのそば近くにいつも主の助けがあるということです。さまざまな苦難の中で必ず見出される助けがあると詩人は告白します。

神は私たちが最悪の状況下で持つ恐れさえ克服させてくれる

 2節後半から3節にかけて、詩人が置かれている状況の厳しさが明らかにされます。「たとえ地が変わり…」という表現が示唆していることは驚天動地、天と地とがひっくり返ったような恐ろしい災い、カタストロフィーが起こっている最悪の状況を示しています。この詩篇が書かれた背景として考えられているのは、エルサレムがアッシリアの王センナケリブに攻撃されようとした出来事です(Ⅱ列王18章から、イザヤ36章)。ヒゼキヤ王の時代、センナケリブがユダの町々を攻め上り、やがてエルサレムに迫りました。エルサレム滅亡の危機を迎えた時、敵軍アッシリアから言われたことばは、「いったい、おまえは何に拠り頼んでいるのか」という挑戦でした。絶体絶命のピンチ、ヒゼキヤ王は対抗する術もなく、主の宮に入って祈りました。「私たちの神、主よ。どうか今、私たちを彼の手から救ってください」(Ⅱ列王19:19)。主はその祈りに応えて、不思議な奇跡をもって、エルサレムを守られました(Ⅱ列王19:35)。また、ある説教者はこの苦難の様相をヨブ記の中に見ています。財産を失い、子どもたちを失い、最後には自分自身の健康さえも失ってしまったヨブ。災難に次ぐ災難に見舞われて、ヨブはこう独白しました。「私が生まれた日は滅び失せよ」(ヨブ3:3)、そして「まことに、食物の代わりに嘆きが私に来て、私のうめきは水のようにあふれ出る。私がおびえていたもの、それが私を襲い、私が恐れていたもの、それが降りかかったからだ」(同3:24〜25)。しかし、詩篇46篇は言っています。「それゆえ われらは恐れない」と。ジャン・カルヴァンが述べていることですが、何の危険も恐れも感じていない時に、大いなる確信を抱いているかのように振る舞うことは容易なことです。けれども、世界が激しく揺さぶられるような事態に直面しても、「われらは恐れない」と神を信頼し、平安を抱いて歩めることは真に幸いなことです(『旧約聖書註解 詩篇Ⅱ』出村彰訳 新教出版社p.110)。


2,神のご臨在と力を確信して、安息を得よう

 詩篇46篇の中で解釈がもっとも難しいと言われているのが、4節の「川がある。その豊かな流れは 神の都を喜ばせる」という一つの「川」の存在です。地理的場所としてのエルサレムには川はありません。それでここで言う「川」とは何を示すのかについていくつかの説が出されています。一つは、ヒゼキヤ王の時代に作られたケデロンの谷のギホンの泉に通じる水路のことを指しているという考えや、神殿にあった「鋳物の海」に対応する台車付きの洗盤(Ⅰ列王7:27〜39)のことをイメージさせているとの理解や、新天新地における新しいエルサレムのことを示しているとの説もあります。明確な答えはわかりませんが、私自身はこの最後の考えがこの箇所に一番フィットするように感じています。終末的預言であるエゼキエル書の終わり部分47章1〜12節に、水が神殿の敷居の下から流れ出ていて、それが川となったと語られています。「この川が流れて行くどこででも、そこに群がるあらゆる生き物は生き、非常に多くの魚がいるようになる。…この川が入るところでは、すべてのものが生きる」(エゼ47:9)。あらゆるものを潤し、生かし、成長させる水とは、神の霊とも言えるし、神ご自身を指しているとも考えられます。2節の「海」や3節の「水」と対称的な存在です。


3,世の終わりにおける神の御業を見て、希望に生きよう

 この詩篇のクライマックスは9〜10節です。「主は地の果てまでも戦いをやめさせる。弓をへし折り、槍を断ち切り、戦車を火で焼かれる。『やめよ。知れ。わたしこそ神。わたしは国々の間であがめられ、地の上であがめられる』」。天地が揺れ動くような自然世界の異変、あるいは最後にあるように、世界の国同士が立ち騒いで、互いに争うような世界戦争の状況が、この詩篇で描かれてきました。そして主の平和、シャロームが『やめよ。知れ。わたしこそ神』との力強い神の介入的な支配と裁きによってもたらされることを示します。苦難の渦中にいる神の民を力づけるこの壮大な詩篇は、天地創造の御業の神の偉大さに目を向けさせ、同時に世界の歴史を導かれ、どんなに人間たちが神の道に従わず逆らおうとも、いつの日か戦いをやめさせ、完全な神の支配を地上に実現されることを示すことで、神が私たちの真の避け所であり、強き助け、砦であることを明らかにするのです。