コリント人への手紙 第一 2:6ー16
礼拝メッセージ 2016.3.6 日曜礼拝 牧師:船橋 誠
1,この世の知恵ではなく、神の知恵を聞こう
知恵についての話が続きます。現代は、情報革命の流れの中にあり、知恵や知識がもはや際限のないものであることを私たちはよく知っています。インターネット上のフリーの百科事典「ウィキペディア」は英語版では約250万以上の項目、日本語版も約50万を超えているそうです。それを見てもわかるように知識や情報が氾濫し、もはやだれも、すべてを知っていると公言できない時代です。知恵や知識をすべて吸収しようとしても不可能であり、人生の限られた時間では到底足りません。
当時のギリシア人は知恵(ソフィア)を求めて日々過ごしており、多くの知恵を持っていると考えていたように思えます。そんなコリントの人たちに、あたかも知恵を否定しているかのような言い方で語ってきたパウロでしたが、2章6節からは「私たちは知恵を語っているのです」(6,7,13節)と、読者の意表を突くような仕方でこのあとメッセージを展開しています。
しかしパウロらが語るその「知恵」とはこの世の知恵ではなく、「神の知恵」であることをここで明確に示しています。この世の知恵はどんなに大きくインパクトをもたらすものであったとしても、語った人自身が有限な存在である人間なので、いずれ時の経過とともにその知恵も過ぎ行き、無効となり、やがては忘れ去られるものとなります。
一方、神の知恵は、永遠性を持っています。「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、そして、人の心に思い浮かんだことのないもの」(9節)と言われているように、この神の知恵は人間から生み出されたものではありません。むしろ人間のだれも考えつかないようなものです。しかもまた、人間の知性の尺度では、ときにそれは愚かにさえ見えることでしょう。7節「隠された奥義として」、10節「(御霊によって)啓示された」とあるように、これは今日わかりやすく言えば、聖書の言葉と理解しても良いと思います。それはいくつかある知恵や情報の中の一つや、一選択肢としてのものではなく、すべてのものを創造されたお方がもたらされた、「これしかない」と言い得る、唯一の真理であり、最高で至上の知恵なのです。
有名な新約学者N.T.ライトの「クリスチャンであるとは」(上沼昌雄訳 あめんどう)を読みました。ライトは、人は誰でも、心のなかに声を聞いていると言います。どんな声かと言うと、正義が行われ、救出して欲しいとの心の声、霊的な渇きの声、創造者や自然そして人間との関わりを求める声、美しいものを求める声の4つであると言っています。でも、それらの欲求、内なる声を忙しさを理由に押さえつけて、自分の心と向き合うことを先延ばしにしたり、答えも解決もないと最初からあきらめて、心に蓋をしているのが現代人だと言うのです。答えは確かにあるのです。旧約聖書から新約聖書に記されている歴史と、創造者である神のご計画を学びつつ、十字架につけられた栄光の主(キリスト)を見ていくとき、この人間の思いをはるかに超えた神の奥義の素晴らしさが分かってきます。
2,神の知恵は、御霊によって知る必要があります
14節の「生まれながらの人間」というのは、独特の表現です。プシュケーという「魂」や「自然生命」を表す言葉から出たプシュキコスという語が使われています。神からの天然の生命を持っていても、それだけでは、神の知恵を理解することはできないと書かれています。プシュケーも、「霊」と訳されるプニューマもどちらも「いのち」に関係する言葉です。「いのち」という日本語は分解すると、「い」は「息」のことで、「ち」は「勢い」や「勢力」を表し、それで「息の勢い」が元々の意味だそうです。生きていることは、目には見えない勢いや力がその根源にあったと古代の人たちも考えていたそうです。実はギリシア語の「霊」プニューマにも「息」の意味があります。人間が神の知恵を知ろうと思ったら、神の息である「霊」によってしか理解したり、解釈することができないのです。
今日の聖書箇所のこの終わりの部分は、聖書と聖霊との関係を教えてくれるところです。神の御霊によらなければ、神の知恵、啓示、奥義、あるいは聖書は理解できないし、また神の御霊によらなければ、教えることもできないということなのです。 私たちの霊的伝統、アナバプテストの先人たちは、実はこのことを強調して来ました。「御霊を持たずに、それを聖書の中に求めようとする者は、光を求めて闇を得ることになろう。」(ハンス・デンク1527年没)と言って、聖書の解釈は、高い教育を受けた学者や博士が解釈するのが正しいものではなく、たとえ農夫であっても聖霊を受けた人がするのが最もふさわしいと考えていました。
神の御霊によって教えられている神の知恵は、「栄光の主」であると同時に「十字架につけられたお方」である「キリスト」をいつも指し示します。「栄光の主」とあるように、私たちの王として、キリストはこの世界に愛と平和をもたらすことを願い、今も働かれています。そして神のされているそのお働きの手伝いをするように私たちを招いておられるのです。そして王である主が、十字架につけられたことによって、罪の贖いがなされ、どん底にまで降りて来てくださった愛とその謙遜な生き方を私たちに示してくださったのです。
16節のこの方の「みこころ」とは、御霊によってしか得られないものなのです。この「(主の)みこころ」「(キリストの)心」と訳されている言葉は、原語では「理性」とか「考え方」を表す語です。英語ではふつうmind(心、精神、物の考え方)と訳されています。もちろん、パウロは自分たちだけが知恵に通じていると言っているのではなく、御霊を受けているあなたがたも、「キリスト・マインド」を持って御言葉を聞いて悟り、「キリスト・マインド」を持って生きていくように求めているのです。